三浦光村
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三浦 光村(みうら みつむら、元久元年(1205年) - 宝治元年6月6日(1247年7月9日))は鎌倉幕府の御家人。三浦義村の3男。母は土肥遠平の娘。幼名は駒若丸。通称を駿河三郎という。三浦泰村の同母弟。
幼少時代は僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられ、公暁の門弟となる。だが、後に実家である三浦氏に呼び戻され、貞応2年(1223年)には北条重時・結城朝広とともに新将軍・三寅(後の九条頼経)の近習に任じられる。以後、頼経の側近として活躍し、寛喜3年(1231年)に左衛門尉に任じられて検非違使を兼ね、以後嘉禎3年(1237年)に壱岐守、仁治2年(1241年)には能登守となり、寛元2年(1244年)に九条頼経が息子頼嗣に将軍職を譲ると、光村はこれを補佐する意図を以って鎌倉幕府評定衆の一人に加えられた。
ところが、寛元4年(1246年)に九条頼経を押し立てる名越光時ら一部評定衆による執権北条時頼排除計画(いわゆる「宮騒動」)が発覚する。この計画には光村も加担していた。だが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、光村の問題は不問に付して京都に護送される頼経の警護を命じた。『吾妻鏡』によれば、光村は鎌倉に戻る際に頼経と別れる悲しみから涙を流し、「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と語り、頼経の鎌倉復帰を誓ったという。また、この時に頼経の父で朝廷の実力者である九条道家と通じたとする見方もある。
だが翌1247年、北条時頼と安達景盛の策謀にかかった泰村は光村の勧めで鎌倉で挙兵する。だが、三浦軍は幕府軍に敗れ、追いつめられた三浦一族は揃って鎌倉の法華堂で自害して果てた(宝治合戦)。