東海道
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東海道(とうかいどう、うみつみち)
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[編集] 行政区画としての東海道
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行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指した。これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。
- 伊賀国(三重県の西部)
- 伊勢国(三重県の中部)
- 志摩国(三重県の東部と愛知県の伊良子岬付近)
- 尾張国(愛知県の西部)
- 三河国(愛知県の中部と東部)
- 遠江国(静岡県の概ね西部)
- 駿河国(静岡県の概ね中部及び富士山周辺)
- 伊豆国(伊豆半島及び伊豆諸島)
- 甲斐国(山梨県)
- 相模国(神奈川県)
- 武蔵国(東京都と埼玉県、神奈川県の一部。初めは東山道)
- 安房国(千葉県の南部)
- 上総国(千葉県の中部)
- 下総国(東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、茨城県の一部)
- 常陸国(茨城県)
[編集] 道(みち)としての東海道
[編集] 律令時代
律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶ物であった。七道の一つで、五畿七道の中路である。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の物より広く、直線的に建設された。中世に大半が廃れたため、正確な道筋については議論されているが、以下の箇所を除いては近世の東海道とおおむね同様の径路と考えられている。
- 当時は「東海道」の本筋であった。800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって「箱根路」が拓かれると「東海道足柄路」と称されるようになった。なお箱根路は急峻なたため足柄路が復興され中世までは主要な街道筋であった。
- 相模国府以東
武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適しなかったため、当初の東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島の安房国に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。771年(宝亀2年)旧10月27日に東海道に移された(続日本紀)。
[編集] 江戸時代
江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となった。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る。宿駅は53箇所(→東海道五十三次)。当初は、主に軍用道路として整備された。途中に箱根と新居に関所を設けた。
京都から延長して大坂に至る京街道(宿駅4箇所)も、東海道の一部とすることがある。江戸方面から大坂へ向かう場合は、大津宿から京都には入らずに伏見宿に入る伏見街道が、追分駅付近から分岐する。
[編集] 東海道を扱った作品
[編集] 明治時代以後
明治政府は、幹線道路の呼称に番号付きの国道を用いるようになり、地方制度としての令制国も廃止した。幹線道路としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれ、部分的に異なる経路を歩むが、東日本と西日本(関東地方と近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。
現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では磯原、江戸時代以後は東京(江戸)ということになる。