橘樹郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘樹郡(たちばなぐん・たちばなのこおり)は武蔵国・神奈川県にかつて存在した郡である。
その範囲は概ね、多摩川下流部右岸、鶴見川下流部、および多摩丘陵東端の地域であり、現在は川崎市(川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域および麻生区の一部)および横浜市の一部(鶴見区の全域および港北区、神奈川区、中区、保土ケ谷区の一部)になっている。
目次 |
[編集] 歴史
郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられる。その近くの高津区子母口には日本武尊・弟橘媛を祀る橘樹神社がある。
7世紀に入ると大和政権の統治下で国・郡(評)・郷の行政区画が整備される。 この地域は武蔵国橘樹郡となり、郡衙が影向寺(現在の宮前区野川にある寺院、7世紀建立)付近か高津区千年付近に置かれたと推定されている。
[編集] 有史以前
- 子母口貝塚が形成される。
- 梶ヶ谷神明社上遺跡が形成される。
- 影向寺・野川神明社周辺の遺跡が形成される。
- 前期は南部周辺に方墳や円墳が、中後期は北部周辺に横穴墓の築造が増える傾向にある。
[編集] 古代
- 律令制の下で当地域は武蔵国橘樹郡となり、影向寺付近に橘樹郡衙が設置されたと推定されている。
- 当地域と武蔵国国府(現在の府中市)をつなぐ府中街道が歩かれるようになる。
- 影向寺創建、馬絹古墳建造。
- 足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)が官道として利用されはじめる。
- 中原街道が形成されはじめる。
[編集] 中世
- 秩父平氏の流れをくみ源頼朝の御家人となった稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり、- 1205(元久 2)年)が、桝形城に拠点を構え、北部一帯を治めるようになる。なお、現在の川崎市北部地域は摂関家の荘園であり、その荘官として治めたともいわれる。この頃より江戸時代まで、橘樹郡北部は稲毛領(いなげりょう、または「稲毛荘」)と呼ばれるようになる。
- 現在の川崎市南部地域は河崎領(かわさきりょう)などと呼ばれており、秩父党および横山党の諸勢力が拠点を置く。
- 現在の鶴見区周辺は鶴岡八幡宮の社領であり、「鶴見郷」または「大山郷」と呼ばれる。
- 室町時代
- 小田原北条氏による所領の記録「小田原衆所領役帳」に、星川(橘樹郡・都筑郡、かつては久良岐郡に属したとも言われる)、仏向、程ヶ谷(保土ヶ谷)など当郡内の地名が記載されており、当時の当郡内は小田原北条氏の家臣により分割統治されていたと推定されている。
[編集] 近世
- 江戸時代
- 東海道が整備され、川崎宿、神奈川宿、程ヶ谷(保土ヶ谷)宿が置かれる。
- 中原街道が東海道の脇往還として再整備される。
- 足柄道に沿って矢倉沢往還(大山街道)が整備され、二子・溝口宿が置かれる。
- 東海道に神奈川宿、程ヶ谷(保土ヶ谷)宿が置かれる。
- 二ヶ領用水完成。以降、橘樹郡北部(現在の鶴見区以北。稲毛領37村、川崎領23村、計二千町歩)は二ヶ領用水により潤されて新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米を産した。
- また、ほぼ同時期に上流地域(現在の多摩区の一部)を潤す大丸用水が造られたと推定されており、二ヶ領用水と同様に新田開発に貢献する。
- 子母口蓮乗院の庚申塔が建てられる。
- 影向寺の本堂が建てられる(現存)。
- 田中休愚(たなかきゅうぐ)が二ヶ領用水を全面改修。
[編集] 近代
詳細な行政区画の変遷については明治以降の行政区画を参照。
- 神奈川県(当初は神奈川府と称する)が設置され、当郡はその下に置かれる。
- 横浜郵便役所開設。
- 川崎、保土ヶ谷の各街道宿には民間委託の郵便取扱所が設置される。
- 中野島村が多摩郡より橘樹郡に編入。
- かつて多摩川を挟んで両岸に蛇行していた東京府(当時)との境が多摩川上に設定され、次の町域の各一部が移管する。
- 北多摩郡・荏原郡より橘樹郡へ
- なお、上記のうち右岸地域には旧荏原郡・北多摩郡の地名が今も残っているが、左岸地域については大部分が田畑であり住民が少なかった、後に河川敷になった、住居表示施行の際などに町名が改められた、などの理由により現在は地名が残っていない。
- 浅野総一郎が現在の鶴見区付近の東京湾埋め立てをはじめる。
- 以降、1926(大正15)年には鶴見臨海鉄道(現在のJR鶴見線)一部区間を開業させるなど、京浜工業地帯の礎を築いてゆくとともに、海岸線の姿は大きく変貌してゆく。
- 「多摩川砂利採掘取締方法」による取締りが施行される。
- 1936(昭和11)年 2月1日には、二子橋より下流での採掘は全面禁止となった。以降、砂利輸送を行ってきた周辺鉄道の貨物輸送や枝線などが廃止・再編されてゆく。
- 1938(昭和13)年10月1日
- 全町村が川崎市・横浜市の一部となり、橘樹郡消滅。
[編集] 明治以降の行政区画
- 大区小区制施行。
- 郡区町村編制法により行政区画としての橘樹郡が編成され、郡役所が神奈川町(現横浜市神奈川区)に置かれる。
- 1889(明治22)年 4月1日現在、3町20村を数えた。現在の行政区画では概ね川崎市川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区の一部、横浜市鶴見区、神奈川区、港北区の一部、保土ヶ谷区の一部などに相当する。
- 1892(明治25)年 2月5日
- 小机村が村議会協議の末、戦国時代に小机城があったことに由来し、村名を城郷村に改称する。(3町20村)
- 1901(明治34)年 4月1日
- 神奈川町が横浜市に編入される。郡役所は川崎町に移転。(2町20村)
- 1909(明治42)年 4月1日
- 宮川村、矢崎村が保土ヶ谷町に編入される。(2町18村)
- 1911(明治44)年 4月1日
- 子安村が横浜市、大綱村、旭村に分割編入される。(2町17村)
- 1921(大正10)年 4月1日
- 生見尾村が町制施行して鶴見町となる。(3町16村)
-
- 1月1日 大師河原村が町制施行して大師町となる。(4町15村)
- 4月1日 町田村が町制施行して潮田町となる。(5町14村)
- 6月1日 田島村が町制施行して田島町となる。(6町13村)
- 1924(大正13)年 7月1日
- 川崎町、大師町、御幸村が合併して川崎市となる。(4町12村)
-
- 4月1日 潮田町が鶴見町に編入される。(3町12村)
- 5月10日 中原村と住吉村が合併して中原町となる。(4町10村)
- 1927(昭和 2)年 4月1日
-
- 田島町が川崎市に編入される。
- 鶴見町、旭村、大綱村、城郷村、保土ヶ谷町が横浜市に編入される。(1町7村)
- 1928(昭和 3)年 4月17日
- 高津村が町制施行して高津町となる。(2町6村)
- 1932(昭和 7)年 6月1日
- 稲田村が町制施行して稲田町となる。(3町5村)
- 1933(昭和 8)年 8月1日
- 中原町が川崎市に編入される。(2町5村)
- 4月1日
- 高津町が川崎市に編入される。
- 日吉村が横浜市と川崎市に分割編入される。(1町4村)
- 6月1日
- 橘村が川崎市に編入される。(1町3村)
- 1938(昭和13)年10月1日
- 稲田町、向丘村、宮前村、生田村が川崎市に編入される。(郡消滅)
[編集] 隣接郡
東京府(武蔵国)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 江戸時代に幕府によって編纂された武蔵国の地誌で、文政 8年に完成。橘樹郡内については文化13年頃に記されている。村単位で詳細に記されており、地名の由来から社寺とその所蔵宝物、史跡、地形、隣接村などの位置関係、土地の利用状況や田畑・用水路などについても詳説しており、当時の地誌を知る上で貴重な文献になっている。
- なお本資料は歴史関係の書誌を扱う各社が出版しており、現在は ISBN 4-6390-0017-0 が出版されている。また川崎市地名資料室や市内の図書館等でも郷土資料として所蔵し開架されている。
- 川崎歴史ガイド「橘樹郡家と影向寺」、川崎市文化財団、平成16年発行。
- 弥生・古墳・飛鳥を考える—古墳の出現とその展開—、川崎市市民ミュージアム、平成18年発行。
- 菅散歩(一)菅の地名・自然、佐保田五郎、菅散歩出版事務局、平成 9年発行。
[編集] 外部リンク
- 川崎市域の歴史について常設展示あり。
- 横浜市域の歴史について常設展示あり。