乙部町
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乙部町(おとべちょう)は、北海道南西部、檜山支庁中部にある日本海に面した町。
町名はアイヌ語の「オトウンペ」(河口に沼のある川)に由来する。その川は現在の姫川である。
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[編集] 地理
北緯41°58、東経140°08。南は江差町、北は八雲町熊石地区に隣接し、東は乙部岳、突符岳を背に厚沢部町とも境界をなし、西は日本海に臨む。町域は東西17.3km、南北15.6kmで、総面積は162.53k㎡である。全体が波状性丘陵地であり、海岸線まで山が迫り平野部は少ない。町域海岸部の大半は檜山道立自然公園に指定されている。海岸沿いに国道229号線が走り、町域全体の81%が山林であり、人口は海岸部の集落に集中している。町政施行は昭和40年、役場の所在地は、隣接する熊石町役場へ20km、江差町役場へ10km、函館市から70kmの位置にある。管内他町と同様、漸次人口減の傾向を見せている
- 山: 乙部岳(1017 m)、ササマクリ山(711 m)
- 河川: 姫川
- 岬: 突符岬、鮪ノ岬、館ノ岬
[編集] 隣接している自治体
[編集] 沿革
[編集] 姉妹都市・提携都市
[編集] 経済
イカ、サクラマス、スケトウダラなどの水産業が中心。イネ、食用百合根、ジャガイモなどの農業も盛ん。
[編集] 立地企業
- 富岡ワイナリー
[編集] 教育
乙部には、近代以前から和人が居住していたので、本州同様居住者対象の寺子屋は存在していた。 記録は散逸して定かではないが、幕末の嘉永3年(1850)年には寺院利用の寺子屋があったという記述が残されている。
[編集] 小学校
明治時代、「学制」の施行により、開拓使の手により、学校の開設は進められていった。乙部においては、各村からの拠出金により、学校は次々と開設されていったようである。明治11年頃には、乙部学校(乙部村)、突符学校(突符村)、三ツ谷学校(三ツ谷村)、小茂内学校(小茂内村)蚊柱学校(蚊柱村)がそれぞれ開校している。突符学校では特に向突符(元和)は遠隔であるとして分校を設け、明治15年に愛教学校として開校している。その後、学校制度改正に合わせて変遷し、戦後の学制改革によって、新制小学校として、乙部小学校、姫川小学校、姫川小学校富岡分教場、栄浜小学校、栄浜小学校元和分校、明和小学校が発足した。
- 乙部小学校
- 栄浜小学校
- 姫川小学校
- 明和小学校
[編集] 中学校
戦後の学制改革によって、新制中学の設置が見られ、乙部中学校、栄浜中学校、姫川中学校、明和中学校がそれぞれ小学校に併設されて発足した。昭和25年には、富岡分教場が中学校併置で分離独立して富岡小中学校となり、昭和30年代までに各中学校も独立校舎を新築している。その一方で、生徒減や校舎の老朽化、交通の改善で学校の統廃合が行われ、昭和56年に元和分校が廃校、平成9年には富岡小中学校は休校となった。
平成15年、過疎化による人口減や少子化による生徒数の減少を鑑み、町内の5中学校(休校中の富岡中含む)の統合計画が確定し、平成16年より町内中学校が統合、新設「乙部中学校」が新校舎と共に町内唯一の中学校として発足した。
- 乙部町立乙部中学校
[編集] 高等学校
昭和24年、北海道江差高等学校の乙部分校から独立して、定時制高校として北海道乙部高等学 校が発足したが、昭和40年代半ばから、親の教育ニーズの変化や人口の流失等で入学者減が進み、 江差、乙部、厚沢部、上ノ国の4町が結成した「檜山南部地区高校整備促進期成会」が、江差高校・ 厚沢部高校・乙部高校を統廃合する事を検討し、合意に至った。定時制高校としての乙部高校は、昭 和57年に最後の卒業生6人を送り出し閉校となった。
[編集] 交通
[編集] 道路
- 都道府県道
- 北海道道460号乙部厚沢部線
- 北海道道461号乙部港線
- 北海道道1061号旭岱鳥山線
- 道の駅
- 道の駅ルート229元和台
[編集] 空港
[編集] 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
- 檜山道立自然公園
- 元和台海浜公園:海辺にブロックが敷かれた「海のプール」。
- 縁桂:2本のカツラの巨木。林野庁「森の巨人たち百選」に指定。
- 元和台マリンフェスティバル(7月)
- 八幡神社例大祭(8/14-16)
- 縁桂森林フェスティバル(秋分の日)
[編集] 出身の有名人
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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