二本松義綱
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二本松 義綱(にほんまつ よしつな、天正2年(1574年)-天正17年(1589年)3月)は、安土桃山時代の人物。陸奥国の戦国大名二本松畠山家当主。幼名は国王丸。
父・二本松義継が伊達政宗に殺害されたため、二本松畠山家16代当主となる。だが、二本松畠山家を父・輝宗の仇と憎む政宗の猛攻によって二本松城は陥落し、国王丸は会津の蘆名義広を頼った。やがてこの地で元服して「義綱」を名乗る。
だが、天正17年にその蘆名氏も滅亡に追い込まれ、実父である佐竹義重の領地へ逃走する義広に同行した義綱であったが、その途中で足手まといとして殺害されたといわれている。
これにより戦国大名としての二本松氏は滅亡したが、義綱の跡は弟畠山義孝が二本松畠山家の名跡を継ぎ、上杉景勝に仕えたのち水野氏に仕えたという。