二本松城
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通称 |
霞ヶ城、白旗城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 |
二本松満泰 |
築城年 |
室町時代中期 |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀 |
位置 |
二本松城(にほんまつじょう)は、日本の城。所在地は福島県二本松市郭内。日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。
目次 |
[編集] 概要
二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。江戸時代は二本松藩丹羽氏の居城となった。
現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築された。また、城の入り口には二本松藩7代藩主・丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田希夷の献策により、一夜のうちに自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針を刻ませた「戒石銘碑」があり、昭和10年(1935年)に国の史跡に指定されている。
[編集] 形式と構造
二本松城は二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。 頂上の城跡が時代的には古く、室町中期、畠山氏第4代畠山満泰によるものである。畠山氏の以前の居館は殿地が岡(「田地が岡」とも。現二本松市立塩沢小学校の敷地)であった。殿地が岡は平城であるが、周囲の平地から20メートルほどの微高地に築かれており、館的な要素が色濃い城である。観応の擾乱以降不穏になっている情勢にあわせ、城の南方1.5キロほどの「白旗が峰」に築城したと思われる。 山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120メートルである。本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ形となっている。
[編集] 沿革
室町時代初期の興国2年(1341年)室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国は塩沢・殿地が岡に最初の居を構え、地名を二本松と改称した。 二本松城の歴史は、畠山氏4代の畠山満泰が、応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441年 - 1443年)にこの地に城を築城したことに始まる。この頃、畠山氏は二本松氏と姓を改めた。
二本松氏は陸奥岩代地方に定着していたが、戦国時代になると伊達政宗が勢力を伸長し争うこととなった。天正13年(1585年)9月、12代二本松義継は政宗に攻め立てられるが、政宗の父・輝宗に降伏を申し出て和議が成立した。輝宗のもとに出向いた義継は、あろうことか輝宗を拉致し二本松城へ取って返した。これを聞きつけた政宗は、輝宗もろとも義継を射殺した。和議は敗れ、政宗はすぐに二本松城の攻城を開始した。守備側は義継の子・国王丸(のち義綱)を継嗣に立て籠城した。城は政宗の猛攻によく耐えた。しかし、翌天正14年(1586年)7月16日(新暦8月30日)、政宗への内通者も出たため相馬義胤の口添えにより義綱は火を放ち二本松城は落城した。ここに二本松氏は滅亡した。
伊達氏の統治する二本松城には片倉景綱、次いで伊達成実を城代とし、二本松氏旧臣を統治させた。天正18年(1590年)政宗は豊臣秀吉に会津地方を没収されると、二本松城は会津若松城に入った蒲生氏郷の支城となった。氏郷は蒲生郷成、町野重仍を城主に据えた。慶長3年(1598年)蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に入り下条忠親が城代となった。
慶長5年(1600年)徳川家康に敵対した上杉氏は関ヶ原の戦いの後、米沢城に移された。会津には蒲生氏郷の子・秀行が入部し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。その後、元和8年(1622年)には本山豊前・本山河内が城代となり、のちに外池信濃守が城代となった。
寛永4年(1627年)蒲生氏が伊予国松山城に転封となり、会津には加藤嘉明が入った。二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野国烏山城から5万石で入城した。翌寛永5年(1628年)重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には嘉明の二男・明利が入城した。
寛永20年(1643年)嘉明の子・明成が改易となり、明利の子・明勝も本家と同様に改易となった。代わって白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を備えるため大改修を行った。この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った。藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到した。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。しかし、7月29日(新暦9月15日)の僅か1日の戦闘において落城した。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。
昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元された。平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。