井ケイの戦い
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井陘の戦い(せいけいのたたかい)とは、中国の楚漢戦争の中で漢軍と趙軍とが井陘(現河北省井陘)にて激突した戦い。韓信率いる漢軍が背水の陣と言う独創的な戦術を使って趙軍を打ち破った。
[編集] 事前の経緯
劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏を降し、代を降して趙へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なかった。
一方、趙は王の趙歇と宰相の陳余が三十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対して井陘口と言う馬車を並べて走ることが出来ないような狭い地形を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、更に挟撃する作戦を建てたが、陳余は正攻法に拘りこれを却下した。陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。
韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められればひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った。
そして二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて趙の本城を襲うように指示した。また兵士に簡単な食事をさせた後に、将軍に対して「今日は趙軍を打ち破ってからみんなで食事にしよう。」と言ったが、将軍たちは誰も本気にしなかった。
[編集] 背水の陣
井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子天官編』に「背水陳爲絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た陳余は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差もあり一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて城を出て韓信軍に攻めかかった。
韓信は初め負けた振りをしてこれを誘き寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道の無い漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることが出来なかった。
趙軍は容易に敗れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、一旦城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に別働隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、更に韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、趙軍は総崩れとなり敗れた。
趙歇と陳余は捕虜となり、陳余はすぐに処刑され、趙歇も後に処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信が謁見した時に韓信が上座を用意し李左車を先生と賞し燕を下す策を献じてもらい、李左車の策に従い燕を下すことに成功した。
後にこの布陣で何故勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる』」と答えている。これが背水の陣である。
現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(或いは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなくわざと侮らせて誘い出し、背水の陣で負けない一方、城を落として勝つための方策も行っているのである。
城塞に篭った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことが出来る。しかし相手が侮らず攻め続ければ流石に落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう。 これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち情報収集していて、敵の総大将陳余の性格などを長年の親友だった張耳に仔細に渡るまで聞いている所にも見ることが出来る。 韓信が稀代の名将と言われる所以である。