伊牟田尚平
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伊牟田 尚平(いむた しょうへい、天保3年5月25日(1832年6月23日) - 慶応4年(1868年)2月)は、薩摩藩の藩士。通称は伊勢吉。諱は茂時。別名、永頼、相良武振。
喜入郷の領主・肝付氏の家臣の息子として生まれた。1860年、脱藩して江戸に出る。そしてアメリカ公使館員のヒュースケン暗殺など、ゲリラ活動を行なって各地で外国人を殺傷した。このため、薩摩藩の追捕を受けて捕らえられ、鬼界ヶ島に流罪に処された。
後に罪を許され、益満休之助と共に江戸市中の乱暴狼藉などを行なって、幕府を挑発するのに一役買った。これは幕府が大政奉還したために武力討伐の理由がなくなったため、薩摩藩などが大義名分を求めて幕府を挑発し、挙兵させようとしたためである。そしてこの挑発に乗った幕府の過激派が薩摩藩邸を焼き討ちした。尚平はそれを見届けてから上洛したが、部下の辻斬りなど、様々な罪を着せられて、詰め腹を切らされる形で切腹を命じられたのである。享年37。