佐野政言
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佐野 政言(さの まさこと、 宝暦7年(1757年) - 天明4年4月3日(1784年5月21日))は、江戸時代中期の旗本。佐野政豊の子で、通称を善左衛門という。
天明4年(1784年)3月24日、江戸城中で、若年寄田沼意知を「覚えがあろう」と3度叫んでから、脇差で襲撃し、その8日後に意知が絶命したため切腹を命じられる。犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかった事、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し、田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが、一向に昇進出来なかった事等だったが、乱心とされた。