切腹
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切腹(せっぷく)は、みずからの腹部を短刀で切り裂いて死ぬ自殺の一方法。主に武士が行った、日本独特の習俗。近世からは、自死のほかに、処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)、割腹(かっぷく)、屠腹(とふく)ともいう。
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[編集] 歴史と概要
切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) - 1177年(嘉応2年))が最初に行ったとされている。鎌倉時代に武士の習慣と武士道が広まるに従って定着し、中世から近世を通じて行われた。ただし、平家一門が壇ノ浦の戦いで入水自殺したように、武士の自決が全て切腹であったわけではない。
近世以前の事例を見ると、一部の例外を除いて、切腹は敵に捕縛され、斬首されることを避けるための自決に限られている。戦に敗れたから即自決と言うわけではなく、地下に潜伏し、再起を図ろうとする武士も大勢いた。また、壮絶な切腹は畏敬の念を持たれることもあるが、切腹自体は自決のひとつに過ぎず、特に名誉と見られることもなかった。武士の処刑も全て斬首刑で、身分ある武士と言えども敵に捕縛されれば斬首刑か、監禁後の謀殺であった。
しかし、豊臣秀吉が天下を統一するころから徐々に切腹に対する意識が変わったと思われ、豊臣秀次、千利休らには刑罰として切腹を命じられた。その後、関ヶ原の戦い、大坂の役での敗軍武将への処刑は全て斬首刑で、古田織部、細川興秋など、豊臣方与力と看做された者が切腹させられている。その後も、改易された大名が切腹させられた例は浅野内匠頭など極めて例外的であることは注目に値する。
切腹が習俗として定着した理由には、新渡戸稲造が『武士道』(Bushido: The Soul of Japan、1900年刊)の中で指摘した、「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたとの説が、広く唱えられている。
切腹の動機としては、主君に殉ずる追腹(おいばら)、職務上の責任や義理を通すための詰腹(つめばら)、無念のあまり行う無念腹、また、敗軍の将が敵方の捕虜となる恥辱を避けるためや、籠城軍の将が城兵や家族の助命と引き換えに行うなどがある。社会が安定した江戸時代に入ると動機の純粋さも失われて行き、先に殉死した同輩と並ぶために行う論腹や、家の存続や家名を上げるために行う商腹(あきないばら)と呼ばれる例も多く見られ、江戸幕府は殉死を禁じた。
切腹の際の腹の切り方は、腹を一文字に切る一文字腹、一文字に切ったあとさらに縦にみぞおちから臍の下まで切り下げる十文字腹がよいとされた。もっとも、体力的にそこまでは無理なことが多く、喉を突いて絶命することが多かったとされる。後には、切腹に付き添って首を斬り落とす介錯(かいしゃく)の作法が確立した。→詳細は切腹の作法の節を参照のこと。
切腹は、近世からは自死のほかに、処刑(死刑)の方法としても採用された。この場合、自分の不始末を自力で処理するため、主君より「死を賜る」という考えから、名誉刑とされた(これに対して、斬首(ざんしゅ、打ち首)や磔(はりつけ、磔刑)は武士身分がされるべきでない不名誉な刑罰とされた。)。処刑方法としての切腹は、1873年(明治6年)に廃止され、以後、日本における死刑では絞首刑が用いられている。
切腹を自殺の方法として用いる例は、明治時代以降も軍人や右翼の自決にしばしば見られる。著名なものとしては、1945年(昭和20年)8月25日に、東京都内の旧・代々木練兵場(現・代々木公園)で、「大東塾十四士」が古式に則り集団割腹自殺をした事件や、1970年(昭和45年)11月25日に、作家の三島由紀夫が、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で、演説を行ったのち割腹自殺した事件(三島事件)などがある。
[編集] 切腹の作法
戦国時代や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたり、内臓を引きずり出したりといった過激な方法も用いられていたとされ、軍記物にもそのような描写が散見される(医学上は内臓まで到達するまえに失神するとされる)。
近世に入り、武士身分の処刑として切腹が確立すると、切腹にも作法が登場する。切腹する人を切腹人(せっぷくにん)という。切腹人に付き添い切腹人の首を切り落としたり、検視役に首を見せるなど、切腹の補助を行う者を介錯人(かいしゃくにん)という。腹部を切り裂いただけでは死亡までに時間がかかり、死ぬ者に非常な苦痛を強いるため、通常は介錯人が切腹直後に介錯を実行する。江戸時代には、切腹は複雑で洗練された儀式となり、介錯がつく切腹の作法が確立した。切腹の作法が制定された時期については、諸説あるも、18世紀の初め(享保年間の前後)という説が有力である。
介錯は通常、正副の2人、あるいは3人で勤めた。それぞれ、3人の場合、首を打つ「介錯」(大介錯ともいう)、短刀をのせた四方(4つ穴のある三方)を持ち出す「添介錯」(助介錯ともいう)、首を実検に入れる「小介錯」の三役である。
江戸時代中期には、切腹自体も形式的なものとなり、四方に短刀でなく扇子を置き、その扇子に手をかけようとした瞬間に介錯人が首を落とすという方法が一般的になる(扇腹、扇子腹)。有名な赤穂浪士も、比較的身分が高かった大石内蔵助ら数人以外は、扇子や木刀を使用した。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いた、という逸話も残っている。ただし、幕末になると、全面的にではないが、本来の切腹が復活したことも記録されている。
切腹の場所は、大名クラスの身分の上級武士の場合は預かり人(切腹人の身柄を預かる人)の邸内、やや身分が劣る場合は預かり人の邸宅の庭先、さらに身分が劣る場合は牢屋の中とされた。なお、足軽以下の身分(足軽は「士」では無いとされた)や庶民は切腹を許されなかった。
[編集] 手順
ここでは、作法が確立した江戸時代の非自発的切腹(多くは刑罰としての切腹)の手順を説明する。
まず、切腹の沙汰が下されると、切腹人にその旨が伝えられる。切腹前の準備として、切腹する者は沐浴を行い、身を清める。この時に使う水はたらいの中にまず水を入れ、そこへ湯を足して温度を調整したもの(生きた人間が身体を洗う際は湯を水でうめぬるくするのが当時普通であった。これはその逆であり、遺体の湯灌につかう水と同じ方法である)を使用する。次いで髪を結うが、普段より高く結い普段と逆に曲げる。切腹の際の装束は、着衣は白無地の小袖・浅黄色の無紋麻布製の裃で、小袖は首を打ち落とし易い様に後襟を縫い込んでいる物と決まっていた。遺体に着せるのと同じように左前(着用する人の左の襟を手前)に合わせる。
切腹の場所には逆さに返した畳二畳を敷いた上に浅黄色ないしは青色の布か布団を敷き、(場合によってはその上に白砂を蒔く場合もある)後方には逆さに返した(あるいは引き方を逆にした)屏風を立てる。切腹する者の前には盃2組と湯漬け(白飯に白湯を掛けた物)に香の物、塩、味噌の肴と逆さ箸が添えられる(切腹人にとってこの世で最後の食事となる)。検使役の座が切腹する者の座の対面に設けられる。介錯人は、正副の2人、または3人が勤める。介錯人については、首を一刀で切り落とすのは剣術に長けた者でないと勤まらず、下手な者の介錯ではしくじっては何度も切腹人を斬りつけるという無様な事態になりかねない。介錯人は預かり人の家中の者が勤める建前になっていたため、介錯の失敗は武術不心得として預かり人の家の恥とされた。そこで、家中に腕の立つ者がいない場合、他家に依頼して人を借りてくることもあった。
切腹人が盃の酒を飲み終えると、配膳係は膳を下げ、切腹に用いる短刀を四方(4つ穴のある三方)にのせて差し出す。切腹刀は、拵え付きの刀(白木の鞘ではなく、組糸を用いた物を用いる。ただし、先述の通り時代が下ると木刀や扇子で刀に見立てるようになった)を用いる。正介錯人は、切腹人に対して名を名乗り、一礼する。そして、正介錯人は後ろに回り、介錯刀に水柄杓で水を掛けて清め、八双に構える(構えには諸説ある)。切腹人は、検視役に礼をする。切腹人が刀を腹に突き立てた所で、介錯人は首を「皮一枚」残して斬る。皮一枚残して斬ることを「抱き首」といい、この形に斬るのが介錯人の礼儀とされた。抱き首の形にするのは、首が飛んで落ち、土砂に汚れるのを防ぐための配慮と、「身体を分割するのは親不孝」との儒教思想の影響があるためとされる。ただし、例えば土佐では皮を残さず切り落とすなど、地方によって異なり、切腹人があえて首を切断することを希望する場合もあり、必ずしも「抱き首」にしなければならないということはなかった。
介錯が済むと、副介錯人が首を検視役に見せて切腹人の絶命を確認し、切腹の儀式は終了する。
[編集] 劇中の切腹場面
テレビ番組の時代劇などでは、白布を敷いた畳の上に白装束、奉書紙に巻いた拵え無しの刀を用いての切腹シーンが登場する。しかし、実際には、このような切腹はいかなる時代・地方においても存在しなかった。
白の裃は他人の葬儀に出席する際に着るもので、自身が腹を切る時に着ることはない。切腹の場をなにもかも白で統一すると血の色が目立ち過ぎ、見た目が惨たらしくなるためである。実際には碧血の故事(碧血碑を参照のこと)にちなみ、着る物や敷く物は浅黄色に整えられた(浅黄色+赤=碧色)。
短刀も、拵え無しで奉書紙を巻いただけでは、突き立てる際に滑り、切腹が不十分になるおそれがある。また、白鞘は本来刀身保管用のための物であり、武士が実用に供することはない。一般に流布している切腹シーンのイメージは、あくまでも映像上の『見栄え』を考えたものであり、実際とは異なる点も多い。
[編集] 明治以降の切腹
明治に入り制度としての切腹はなくなったが、切腹を武人らしい名誉ある自決とする思想は残った。このため、軍人や右翼も自決方法として、しばしば切腹が用いられる。
明治以降に切腹を行った有名人としては、明治天皇に殉じた乃木希典陸軍大将、特攻の父こと大西瀧治郎海軍中将、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣であった阿南惟幾陸軍大将、作家の三島由紀夫(なおこの三島の切腹の際、上述のような“介錯のしくじり”が起こったと言われる)などがいる。近年の自殺者の中にも、有名無名・男女問わず、割腹自殺するものは多い。[要出典]
なお、日本以外では、ドイツの地政学者カール・ハウスホーファーが、切腹自殺を遂げている。
[編集] 切腹に関する研究
切腹は、日本独自の習俗であることから、研究対象として、あるいは興味関心の対象として、注目された。英語圏においては、「腹切り」(harakiri)としてそのまま英語の単語になり、オックスフォード英語辞典 (OED) の項目に採用されている。
新渡戸稲造は、1900年に刊行した著書Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)のなかで、切腹について、腹部を切ることは、そこに霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰に由来する、と考察している。
戦での首切りの習慣や周辺諸民族の風習と併せて考えると、切腹は南方諸民族の共有していた生命観に行き着く。すなわち、命は腹や頭に宿っており、勇敢な戦士の魂を自分のものとするために斬頭したり、自己の魂を見せつけるために切腹したりするのだと考えられるのである。
なお、生命科学の分野では、アポトーシスを誘導する遺伝子のひとつに、「Harakiri」の名前が採用されている。Harakiri遺伝子は、脳虚血時や、アルツハイマー型痴呆による神経変性時に、神経細胞の死をつかさどる。これは、「アポトーシス=細胞の自殺=腹切り」という連想から名付けられた。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 千葉徳爾『切腹の話-日本人はなぜハラを切るか』(講談社現代新書)講談社 1972年
- 千葉徳爾『日本人はなぜ切腹するのか』 東京堂出版、1994年9月 ISBN 4490202482
- 山本博文『切腹―日本人の責任の取り方』 光文社新書 2003年 ISBN 4334031994
- 福田陸太郎監修 / 東京成徳英語研究会編著『OEDの日本語378』 論創社 2004年2月 ISBN 4846005003
[編集] 関連項目
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