依田信蕃
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依田 信蕃(よだ のぶしげ、天文17年(1548年) - 天正11年(1583年))は、戦国時代の武将。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 天文17年(1548年) | |||
死没 | 天正11年(1583年) | |||
別名 | 源十郎(幼名)、常陸介、右衛門介(通称)、 蘆田信蕃(別名:あしだのぶしげ) |
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主君 | 武田信玄→武田勝頼→徳川家康 | |||
氏族 | 依田氏(蘆田氏) | |||
父母 | 父:依田信守 | |||
子 | 依田康国、康勝 |
始め武田信玄に信濃先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いの時期には二俣城の守将を務めた。しかし、長篠の戦いで武田軍が大敗し徳川家康率いる徳川軍が反攻して来ると、四ヶ月余りの攻防の末、城兵の助命を条件に開城、駿河田中城に退き田中城将となった。
1582年、織田信長による武田征伐が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、よく守った。しかし、織田軍の攻撃によって武田勝頼が自害すると、田中城を開城している。田中城開城後は自領の佐久地方へ帰還するが、信長は武田旧臣に対して苛烈な姿勢で臨んだため、家康の計らいで隠棲し難を逃れた。同年6月、本能寺の変で信長が死去し、武田遺領を巡って天正壬午の乱が起こると、家康の招聘を受けて徳川氏の家臣となった。信濃・甲斐における旧武田氏家臣団の調略に大きな功績を挙げた。また、自ら徳川方に引き入れた真田昌幸と共に東信においてゲリラ戦を展開、甲斐若神子まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。この事実と甲斐郡内において北条軍が徳川軍に敗北したことにより、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で後北条氏との講和が成立した。
天正11年(1583年)、信濃岩尾城攻略中に敵の銃撃を受け、その戦傷がもとで死去した。享年36。