俣野景久
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俣野景久(またのかげひさ、?-寿永2年(1183年))は、平安時代の武士。「景尚」とも。五郎。
鎌倉党の嫡流鎌倉景宗の庶子で、相模国鎌倉郡俣野郷(現・神奈川県横浜市戸塚区および藤沢市)に住して俣野五郎と称した。
景久の知られている事跡は主に『平家物語』(『源平盛衰記』)にもとづいており、また、『曽我物語』では河津三郎祐泰と相撲で対戦をし、初めて「河津掛け」をされた人物ともいわれている。兄大庭景親に与同して石橋山の戦いでは平氏方につき源頼朝の討伐に参加し、頼朝を敗走させた。その際に頼朝に寵愛されていた佐奈田与一義忠と死闘を繰り広げ、長尾定景(新六)の助けにより一命を取り留めた。景親はその後源氏方に捕らわれ処刑されたが、景久は逃亡し、その後北陸に敗退した平維盛軍に合流しなおも戦い続けた。しかし、倶利伽羅峠の戦いで源義仲軍と兵戈を交え、加賀国篠原(信濃国飯山との説もある)において戦死している。
本貫の地である俣野の伝承によると、死期迫った景久は、念持仏を故郷に祀るよう託したという。現在、俣野観音堂に十一面観音像が奉安されている。