石橋山の戦い
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石橋山の戦い | |
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戦争: 治承・寿永の乱 | |
年月日: 治承4年8月23日(1180年9月14日) | |
場所: 相模国足柄郡石橋山(現小田原市) | |
結果: 平氏軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
源氏 | 平氏 |
指揮官 | |
源頼朝 | 大庭景親,伊東祐親 |
戦力 | |
不明 | 不明 |
損害 | |
不明 | 不明 |
石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、日本の平安時代後期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。源平合戦と呼ばれる諸戦役の最初の戦いの1つ。
目次 |
[編集] 戦前
伊豆国蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)に流刑となっていた源頼朝は以仁王の平氏追討の命旨に応じ、挙兵を決めた。8月17日(新暦9月8日)に挙兵し、北条時政らと謀り、伊豆国の目代と伝えられる平家の一族山木兼隆を殺害した。
頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向を探らせ、京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの報告を受け、伊豆に勢力を持つ平兼隆を討つ事を決意する。工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと軍議を行い「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。そして挙兵の前日に至るが、佐々木兄弟が参ぜず、頼朝は盛綱に計画を漏らした事を悔いるも、挙兵の8月17日(新暦9月8日)、洪水により遅れ、急ぎ疲れた体で兄弟が参着すると、頼朝は涙を流してねぎらい、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。
[編集] 石橋山の戦い
8月23日(新暦9月14日)、三浦氏との合流が滞った頼朝は伊豆から相模国へ向かい、足柄郡石橋山(神奈川県小田原市)にて平清盛から頼朝追討令を受けた大庭景親や伊東祐親ら平家方に挟撃された。敗走した頼朝は箱根山から真鶴半島へ逃れ、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から土肥実平の協力で房総半島の安房国を目指して落ち延び、海上で三浦氏と合流した。
兵力は頼朝らは300騎、大庭・伊東ら平家方は3000騎を超す数であったと伝えられる。真鶴や土肥の椙山では逃亡中に「しとどの窟」で平家方の梶原景時に救われたエピソードが頼朝伝説の1つとして残る。
[編集] 戦後
安房においては頼朝は千葉氏などに迎えられて反平家の兵を集め、富士川の戦いにてはじめて平家方を撃破する。