元帝 (南朝梁)
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元帝(げんてい、508年 - 554年、在位552年 - 554年)は、中国の南北朝時代の梁の第4代皇帝。姓は蕭、名は繹(しょう えき)、字は世誠、幼名は七符。廟号は世祖。初代皇帝武帝の第7子。
湘東王に封じられ、547年,鎮西将軍・都督・荊州刺史となった。
侯景の乱により建康が陥とされると、蕭繹は侯景によって擁立された簡文帝や蕭棟といった皇帝を認めず、自らが梁の正当な後継者であると自称し、他の皇族たちと対立しあった。その中で王僧弁や陳覇先といった配下の協力により力を得た元帝は、侯景と対決し、552年3月、即位して皇帝位を自称していた侯景を討ち滅ぼした。そして同年11月、江陵の地で、蕭繹は正式に皇帝に即位する。
しかし、侯景を討ち果たして即位したとはいえ、梁は相変わらず戦乱のただ中にあった。元帝の即位の直前には、弟である蕭紀も皇帝を自称しており、即位後に彼自身が弟を討ち滅ぼしている。彼自身も旧来の都である建康に入ることなく、江陵に留まっていた。
一方、元帝の甥にあたる蕭詧は、蕭繹に敗北した末に、西魏へと助けを求める。不安定なこの状態を勢力を拡大する好機と見た西魏は、蕭詧が正当な後継者であるという大義名分の元、554年に梁へと攻め込んだ。この軍勢に対して蕭繹の率いる軍勢は多勢に無勢であった。蕭詧を皇帝として立てた西魏軍の手によって、元帝は殺害された。(なお、この王朝はのちの後梁である)
元帝は中国の歴代皇帝の中でも学問を愛した皇帝であり、幼少時に病気で片目を失明してはいたが、書物を好み、自ら多くの著作を残したとされている。しかし、西魏軍により江陵が陥とされる直前、十数万巻に及ぶ蔵書は元帝自身の手によって全て焼き払われたという。
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