八雲 (装甲巡洋艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八雲(やくも)は大日本帝国海軍が日露戦争前にドイツから購入した最初の装甲巡洋艦。本艦は六六艦隊の装甲巡洋艦の第一期拡張計画で整備された艦である。なお、本艦を建造したのは清国海軍の「定遠級戦艦」を建造した老舗フルカン社である。
目次 |
[編集] 艦形について
船体形状は典型的な平甲板型船体であり、凌波性を良くするために乾舷を高く取られている。艦首には未だ衝角(ラム)が付いている。主砲は新設計の「20.3cm(45口径)砲」を楕円筒形の連装砲塔に纏め、1番主砲塔、司令塔を組み込んだ操舵艦橋、単脚の前檣、等間隔に並んだ三本煙突の後ろに艦載艇置き場、ボート・クレーンの基部を兼ねる単脚の後檣、2番主砲塔の順である。15cm(40口径)単装砲は12基も載せられ、甲板砲廓部4基に舷側に2基の片舷6基が配置された。他には水雷艇対策に艦首・艦尾と上甲板に8cm(40口径)単装速射砲が12基、47mm砲が単装12基が前檣と後檣、上甲板に12基配された。
[編集] 火砲等
大日本帝国海軍では戦艦・巡洋艦の備砲は列強に先駆けて口径を統一する事を第一に行った稀有な海軍である。そのため、本艦を含む6隻の一万トン級装甲巡洋艦の搭載砲は全て一貫していた。この事は兵の教育と弾薬の補給に非常に有利であった。これは、明治初期の艦艇の備砲の口径や使用方法が艦ごとにバラバラで、砲弾の互換性や兵の応用が利かなかった戦訓によるものであった。
本級の主砲は新設計の「20.3cm(45口径)砲」である。これを楕円筒型の連装砲塔に収めた。この砲塔は左右150度に旋回でき、仰角30度・俯角5度であった。重量113kgの砲弾を毎分2発の間隔で発射できた。射程は仰角30度で18,000mである。副砲は「1895年型 15.2 cm(40口径)砲」を採用し、この砲は毎分5発を発射できたが、熟練した兵ならば7発が可能であった。45.4kgの砲弾を俯仰角度は仰角20度・俯角5度で、仰角20度で9,140 mの射程を持っていた。他に、ヴィッカーズ社の「1894年型 8cm(40口径)砲」を単装砲架で12基、47mm単装砲を12基、45cm魚雷発射管を艦首に1基、水中に4基を装備した。
[編集] 機関
ボイラーは当時の最新型高性能機関であるフランス製のベルヴィール式石炭専焼缶を24個。これに、直立型四気筒三段膨張式レシプロ機関2基2軸推進とし出力15,500hp、速力20.5ノットを発揮した。航続距離は石炭1,300トンで速力10ノットで7,000海里と、当時にして大航続距離を誇った。
[編集] その他
本艦ら六六艦隊の装甲巡洋艦は日露戦争での戦闘だけではなく、大正から昭和にかけて練習艦隊を編成し少尉候補生の遠洋航海に従事したが、本艦は昭和14年まで使用された。終戦時は可動状態であったため復員船として使用され、1946年7月20日に日立造船の舞鶴造船所で解体が開始された。
[編集] 艦歴
[編集] データ
[編集] 竣工時
- 水線長:124.65m
- 全長:124.7m
- 全幅:19.6m
- 吃水:7.2m
- 基準排水量:9,695トン
- 常備排水量:-トン
- 満載排水量:-トン
- 兵装:20.3cm(45口径)連装砲2基、15cm(40口径)単装砲12基、8cm(40口径)単装砲12基、47mm単装砲12基、45cm単装水中魚雷発射管4基+同単装水上魚雷発射管1基
- 機関:ベルヴィール式石炭専焼缶24基+直立式四気筒三連成レシプロ機関2基2軸推進
- 最大出力:15,500hp
- 最大速力:20.5ノット
- 航続性能:10ノット/7,000海里
- 装甲
- 舷側装甲:178mm
- 上部水線帯:-mm
- 甲板装甲:102mm
- 主砲塔装甲: -mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
- パーペット部:-mm
- 司令塔:356mm
- 航空兵装:-機
- 乗員:648名
- 同型艦:なし
大日本帝国海軍の装甲巡洋艦 |
浅間型:浅間 | 常磐 八雲型:八雲 吾妻型:吾妻 |
出雲型:出雲 | 磐手 春日型:春日 | 日進 |
筑波型:筑波 | 生駒 鞍馬型:鞍馬 | 伊吹 |
そのほかの巡洋艦一覧 |
日本の防護巡洋艦・日本の軽巡洋艦・日本の重巡洋艦
■テンプレート/■ノート
|