六角高頼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
六角 高頼(ろっかく たかより、1462年?(寛正3年) - 1520年12月9日(永正17年10月29日))は、南近江の戦国大名。六角政頼?(又は六角久頼)の子。子に六角氏綱、六角定頼、大原高保、梅戸高実がいる。他に土岐成頼の次子を養子にしていたとも。亀寿丸。四郎。大膳大夫。別名行高。
1467年からの応仁の乱では、西軍(山名宗全側)に属した(ただし、応仁の乱の六角亀寿は高頼とは別人(高頼の父)だとも)。応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して公家・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、これがかえって配下の国人衆や時の将軍・足利義尚や足利義稙らの反発を受け1487年、1491年と二度にわたる追討(長享・延徳の乱)を受ける羽目になってしまった。そして、一時は領地を捨てて甲賀山中に逃亡している。だが、やがて足利氏との関係修復に努め、都の騒乱から避難してきた義稙や足利義澄らを庇護している。1506年、子の氏綱に家督を譲って隠居した。その氏綱は自身に先立って死去したが、同じく僧籍にあった定頼を還俗させて家督を継がせている。1520年、59歳で死去した。
ちなみに生年には異説も多く、一説には1432年生まれとも言われている。