内藤政民
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内藤 政民(ないとう まさたみ)は、江戸時代の大名。陸奥湯長谷藩の第10代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 文化3年(1806年) | |||
死没 | 安政6年10月23日(1859年11月17日) | |||
官位 | 従五位下、因幡守 | |||
藩 | 陸奥湯長谷藩主 | |||
氏族 | 酒井氏→内藤氏 | |||
父母 | 父:酒井忠徳、養父:内藤政環 | |||
兄弟 | 酒井忠器、水野忠実、黒田直侯、 市橋長富、内藤政民、小笠原長泰 |
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妻 | 正室:内藤政環の養女(水野忠光の娘 | |||
子 | 娘(内藤政恒正室)、娘(水野勝知正室)、 娘(朽木率綱正室)、養子:内藤政恒 |
文化3年(1806年)、出羽庄内藩主・酒井忠徳の五男として生まれる。第9代藩主・内藤政環の養子となり、文政7年(1824年)8月23日に政環が隠居したため後を継いだ。同時に叙任している。しかし生来より病弱だったらしく、文政12年(1829年)に養子・政恒に家督を譲って隠居している。
湯長谷藩の歴代藩主の中では学問好きの藩主だったらしく、藩校・致道館の創設に尽力し、自ら講師となって藩士子弟の教育に務めたといわれている。安政6年(1859年)10月23日に死去。享年54。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。
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