内藤興盛
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内藤 興盛(ないとう おきもり、明応4年(1495年) - 天文23年(1554年))は日本の戦国時代の武将、大内氏の家臣である。長門守護代。内藤弘矩の甥。父は内藤弘春。子は内藤隆時・内藤隆春など。娘は毛利隆元の室、孫(隆時の娘)は陶晴賢の室。
伯父の弘矩は大内家重臣として権勢をふるったが大内義興に謀反の疑いで実子(内藤弘和)とともに殺されたので、弘矩の弟弘春に家督が転がり込んだ。のち、弘春の子興盛が弘矩の娘を娶り、内藤氏の当主となった。
義興に仕え、宿老。長門国の守護代を務めた。義興の上洛作戦にも参陣し、1528年(享禄元)に義興が死去した後は大内義隆に仕える。義隆の時代には家中随一の大身の重臣となった。軍評定衆を務め、1551年(天文20)の陶晴賢が起こした謀反では、消極的に晴賢を支持したが、直後に隠居した。嫡男・隆時はこの時には既に亡くなっており(1541年の尼子氏遠征か?)、家督は嫡孫・隆世が継ぐ事となった。
だが、興盛の実の娘の嫁ぎ先の毛利氏と同じく孫娘の嫁ぎ先の陶氏の対立が鮮明になってきた矢先に興盛が病死してしまうのである。そのため内藤家中は、自分の義兄弟である陶晴賢を支持する嫡孫・隆世派と、娘婿である毛利隆元とその父・元就を支持する五男・隆春派が対立し、厳島合戦を機に一族が分裂してしまうのである。
大内家中では、武将としてと言うより文化人、教養人としての信望が厚かったと言われている。 フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のため山口を訪れたとき、義隆との面会を取り次いだのも興盛である。他方、晴賢に追いつめられた義隆からの自身の隠居を条件とした和睦の仲介依頼を拒否するなど、戦国を生きる人間としての厳しい一面をうかがわせるエピソードも残っている。