フランシスコ・ザビエル
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フランシスコ・ザビエル(Francisco de XavierまたはFrancisvo de Gassu y Javier, 1506年4月7日 - 1552年12月2日)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名だが、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。かつて日本のカトリック教会では慣用的に(イタリア語読みの)「ザベリオ」という呼び名を用いていた。
ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味であるEtxebarria(家(etxe)+新しい(barria))のイベロ・ロマンス風訛りで、彼の生家である城(ナバーラ王国・現ナバラ州、バスク語ではナファロア王国)の名でもあった。ChavierやXabierreなどとも綴られることもあるが、Xavierはポルトガル語で発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで発音はシャビエルであったと推定される。現代スペイン語ではハビエル Javier。ただし、彼はバスク語及びナバーラ語のバイリンガルだったと推定される。
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[編集] 生涯
[編集] 青年期まで
1506年4月7日生まれのザビエルはスペインバスク地方、パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟の末っ子で、父はドン・ファン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・アスピルクエタという名前であった。父はナバラ王国の宰相であった。彼が誕生した頃、すでに父は60歳をすぎていた。ナバーラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペインの紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。この後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。このように物心ついたころから戦乱の日々を生きていたフランシスコは聖職者を志すことになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学。バルバラ学院に入り、そこで自由学芸を修め、神学を学んでいるときにピエール・ファーヴルに出会う。さらに同じバスクから来た中年学生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)との出会いがザビエルの人生を変えることになる。ザビエルはイグナチオから強い影響を受け、俗世での栄達より大切な何かがあるのではないかと考えるようになった。1534年8月15日、イグナチオを中心とした7人のグループは、モンマルトルにおいて神に生涯をささげるという同志の誓いを立てた。その中にザビエルの姿もあった。これがイエズス会の起こりである。1537年6月ベネチアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルはイグナチオら5人と共に司祭に叙階される。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
[編集] 東洋への出発
当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発した。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させた。
ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなった。
[編集] 日本到着
ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、ファン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。
中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(たまたま当日はキリスト教の聖母被昇天の祭日だった)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職、忍室(にんじつ)との宗教論争を行なった。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。
1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。
[編集] 京都から山口へ
1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着した。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われた。その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられている。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。
ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が住まわれる御所も荒れ放題であった。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶された。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。
1551年3月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々をもって山口へ向かい、再び領主の大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、どこでも貴人と会見する時は外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を大内義隆に献上した。大内義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意した。山口で布教しているとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。
[編集] 再びインドへ・ザビエルの最期
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。
1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代りに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着した(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去った。享年46。
遺骸は上川島で一度埋葬された後、マラッカを経てゴアに移され現在はボン・ジェズ教会に安置されているが、遺体の一部は、ローマ・ジェズ教会に移された。
ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖された。
ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされている。
[編集] ザビエルと日本人
ザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価である。同時にザビエルが驚いたことの一つはキリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであった。(その事でザビエルは大内義隆に向かって畜生にも劣る行為と言ったとされている)
布教においては困難をきわめた。初期には通訳を勤めたヤジロウのキリスト教に関する知識のなさからキリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と思い違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の唯一神は「デウス」と呼ばれることになる。
上智大学のルーツとされており、2006年はザビエル生誕500年を記念して各種事業が行われている。
[編集] ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体
[編集] 教会
日本国内にはザビエルの名を冠する教会が35ある。そのうち、以下の教会にはザビエルの遺骨が安置されている。
また、東京カテドラル聖マリア大聖堂には、ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。
日本以外にもザビエルの名を冠する教会は数多くあるが、プロテスタントの国アメリカにも、アリゾナ州ツーソン近郊に西暦1700年の設立と伝えられる「聖ザビエル伝道教会(w:Mission San Xavier del Bac)」がある。
[編集] 団体
- 聖ザベリオ宣教会
- ザベリオ学園(無原罪聖母宣教女会)
[編集] ザビエルの銅像・記念碑等
[編集] 国内
- 鹿児島県
- ザビエル来鹿記念碑(鹿児島市)1949年、ザビエル来航400年を記念して設置。記念碑の立つ「ザビエル公園」内にはザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの銅像(画像参照)もあり、また「鹿児島カテドラル・ザビエル教会」も公園に隣接している。鹿児島市電「高見馬場」または「天文館通」電停下車。
- ザビエル上陸記念碑(鹿児島市)ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。 碑文たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったらなんの益があろうか。「祇園之洲公園」バス停下車。
- ザビエル会見記念碑(日置市)1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が島津貴久に謁見した伊集院一宇治城跡に設置。JR伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分。
- 長崎県
- ザビエル記念像(平戸市)ザビエルの平戸来航を記念して1971年建立。カトリック平戸教会前。
- 大分県
- ザビエル記念像(大分市)ザビエルの来航を記念して遊歩公園内に建立。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描きこんだモニュメントも設置されている。
- 山口県
- 大阪府
[編集] 海外
[編集] 参考文献
[編集] 一次史料
- 村上直次郎訳、柳谷武夫編『イエズス会士日本通信』(上)雄松堂(新異国叢書)、1968年。
- シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社、1985年。※1994年に同社の「東洋文庫」に所収(全4巻)。
[編集] 研究文献
- 尾原悟 『ザビエル(Century Books ― 人と思想)』 (清水書院、1998年) ISBN 438941156X