刈谷城
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刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)にあった城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が昭和25年4月(1950年)以降に市制施行してから、「刈谷」という表記がされうようになった。築城年と場所が異なる2つの城がある。
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[編集] 元刈谷城(刈谷古城)
刈谷古城もしくは元刈谷城は現在の刈谷市天王町1丁目にあった城。文明年間(1469年-1486年)に水野貞守により築城される。禅僧・万里集九「梅花無尽蔵」に「矢作在三川、蓋水野所住刈屋城三里」との記述がある。天文2年(1533年)水野忠政の新城建設により廃城となる。遺構はなく宅地および畑となっている。市道をはさんで南に本刈谷神社がある。
[編集] 刈谷城
刈谷城は現在の刈谷市城町1丁目にあった城。平城。別名「亀城」。以下は、この「刈谷城」に関する記述である。
[編集] 城の構造
衣ヶ浦(ころもがうら、三河と知多半島の間に位置する入江)の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸、帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて二の丸、三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれていた。天守閣はなかったが、北西と南東に隅櫓があり、周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には内堀と馬出しが設けられていた。
[編集] 歴史
天文2年(1533年)水野忠政により築城。 忠政の死後、信元が城主となり織田家に仕えるが、天正3年(1575年)武田方への内通を疑われ殺害。佐久間信盛の領有となる。信盛失脚の後、信元の末弟忠重が城主となって水野氏の領有に復した。忠重、勝成、忠清と5代百年の水野氏の居城を経て、寛永9年(1632年)に 深溝松平家入城、その後久松松平家(1649年)、稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、本多氏(忠勝系、1710年)、三浦氏3代(1712年)と頻繁に城主の交代があった。(城主の詳細については刈谷藩を参照)1747年より土井氏9代の支配の後、明治4年(1871年)の廃藩を迎え、城は破却された。
[編集] 遺構
現在、城跡のうち本丸および帯曲輪の一部が亀城公園となっている。建物や石垣の遺構は全くないが、本丸を囲む土塁が残存する他、帯曲輪東側の堀は拡幅されて池となっており、かつての城郭の名残りをとどめている。