蒲生君平
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蒲生君平(がもう くんぺい、明和7年(1768年) - 文化10年7月5日(1813年7月31日))は、江戸時代後期の儒学者。同時代の林子平・高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。姓は、天明8年に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝に倣い改めた。君平は字で、名は秀実。号に修静庵。
[編集] 略歴
下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の生まれ。父は町人福田正栄で、油屋と農業を営む。鹿沼の鈴木石橋、黒羽藩士鈴木為蝶軒に学び、水戸藩士藤田幽谷の影響も受ける。曲亭馬琴、本居宣長ら多くの人物とも交流があり、高山彦九郎を慕い陸奥を旅し、帰路に林子平を訪ねた(会えたという説と会えなかったという説がある)。
ロシア軍艦の出現では北辺防備を唱え、『不血緯』を著す。京都では歌人小沢蘆庵の邸に滞在して天皇陵(古墳)を研究し、佐渡島の順徳天皇陵まで歴代天皇陵を旅して、享和元年(1801年)に『山陵志』を完成。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができた。その後は江戸に住み、大学頭林述斎に文教振興を建議している。46歳で病没。
また、没後、明治2年12月には、その功績を賞され勅旌碑が建てられた。さらに明治14年5月には正四位が贈位されている。その他、宇都宮市の蒲生神社(大正15年創建)に祭神として祭られている。ほか著作に『職官志』。『蒲生君平全集』(東京出版社,1911)がある。