劉エン
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劉琰(りゅうえん、生年不詳 - 234年)、字は威碩(いせき)。中国後漢末期の魯国の人。蜀(蜀漢)の政治家。
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[編集] 略伝・人物
[編集] 生涯
『蜀書』劉彭廖李劉魏楊伝 - 劉琰伝によれば、
劉備が豫州刺史の時に、劉琰は劉備に仕官した。劉備は彼が風流で言論が巧みで、同姓だったこともあり、その能力を認められて、従事として召し抱えた。
劉禅の代になると、都郷侯に封じられた。やがて、衛尉・中軍師・後将軍に昇進した。後に車騎将軍に昇進を重ねた。
しかし、彼は国政には参与せず、諸葛亮などの周りで、批評や建議などを主に行なっていたといわれる。また、贅沢な生活を送っていたとする記述も多い。
征西大将軍の魏延と折り合いが悪く、楊儀と共にこれと激しく衝突した。そのために、諸葛亮によって成都に更迭された。
諸葛亮の死後、年老いた劉琰は耄碌してしまい、後妻の胡氏が若く美貌のために、彼女が後主(劉禅)と交わったと激しく猜疑した。被害妄想に陥った劉琰は、若い妻に対してを鞭で刑罰を与えた挙句に、強制的に離縁した。
このために、胡氏は夫から虐待を受けた、劉禅に告訴したので、激怒した劉禅によって、劉琰は息子と共に逮捕投獄され、間もなく処刑され、晒しものにされたという。
『演義』では、何故かこの事件は第115回に、蜀漢滅亡直前の話になっている。劉禅の昏君ぶりを示し、亡国を暗示するエピソードとして扱われている。
[編集] 出来事 (年代順)
- 劉備が豫州刺史時代に、従事として仕官する(195年 - 197年頃)。
- 建安十九年(214年)、劉備の益州平定後に、固陵太守に任命される。
- 建興元年(223年)、劉禅即位後に都郷侯に封じられ、衛尉・中軍師・後将軍に任命、車騎将軍へと昇進。
- 建興十年(232年)、魏延と衝突し、諸葛亮によって強制的に成都に更迭される。
- 建興十二年(234年)、後妻の胡氏と離縁。その後、胡氏の告訴で逮捕投獄される。
- 諸葛亮の死後、息子と共に市場で処刑される。
[編集] 参考書籍
「正史 三国志 5 蜀書」 (陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7