劉隗
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劉隗(りゅうかい、273年 - 333年)は、前漢の楚元王劉交の19世の末裔といわれる。字は大連。彭城郡の豪族出身で、西晋の東光県令・劉砥の子。
[編集] 略要
[編集] 生涯
彼は若くして孝廉に推挙され、郎中(近衛警備官)から秘書郎を経て彭城内史に昇進した。丹陽県令の時にその能力を琅邪王の司馬睿(後の東晋の元帝)に買われて、侍中に抜擢された。
以降も、鎮北将軍を兼ねて青州・徐州・幽州・平州の四州を統轄する都督を歴任した。やがて中央に召還され御史中丞として刁協と共に元帝の近侍として実権を握った。これは実力者の王敦を抑えるための皇帝の手段だったと思われる。
321年に勅命で再び鎮北将軍として、淮陰に駐屯した。これは当然武昌に独立体制を敷いている王敦の謀反に対する備えであったという。皇帝の仕打ちに激怒した王敦はついに翌322年に劉隗・刁協ら「君主の傍らにいる佞臣を誅せん!」という名目で武昌で謀反を起こした。この報に驚愕した元帝は直ちに劉隗と刁協を呼び戻して、都の防衛を命じた。だが王敦率いる大軍に適わず敗退し、劉隗と刁協は逃亡したが刁協は部下に殺され、その首級は王敦に差し出された。劉隗のほうは北方にいた匈奴系の北趙の石虎の下に無事に逃亡した。
それから333年に北趙の石虎に従って、劉隗は丞相左長史として長安にいた同じ匈奴系の趙漢の劉氏の残党を片付けるために従軍したが、彼は潼関で61歳で戦死を遂げたということである。なお彼の末裔の消息は定かではない。
[編集] 子
不詳