石虎
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石 虎(せき こ, 295年 - 349年)とは、中国五胡十六国時代の後趙の第3代の皇帝である。初代の石勒の甥に当たる。字は季龍、諡号は武帝、廟号が太祖、御陵は顕原陵である。
333年に石勒が没すると、太子の石弘に帝位は継承されたが、334年には、石虎は新帝を廃してしまい、自ら居摂趙天王となった。翌年には、都を襄国から鄴に遷都した。石虎の統治した時代は、石虎自身の暴虐非道な性格をうつして、乱世であるこの時代の中でも最も非道が罷り通る時代と評されている。中でも、次々に大宮殿を造営したり、統治下の漢人から、馬、美女、物資などありとあらゆるものを徴発し続けた結果、漢人のうち10に7が破産し、また妻を取られて自殺するものも後を絶たなかったという。
348年、石虎がとくに寵愛していた息子のひとり石韜を、太子である石宣が地位を奪われることを恐れて殺害した。事件が究明されると、石虎は怒り狂って石宣を惨殺し、他の宗族や臣下まで多数虐殺した。
349年に「天王」位の称号を廃して、皇帝の位についたが、その年に病没してしまった。太子の石世が跡を継いだ。
また、凶暴な性格ではあるが、仏教に対しては寛容であり、仏図澄を国師待遇していた。
[編集] 伝記資料
- 『晋書』巻106、107「石季龍載記」
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