北海道の分領支配
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北海道の分領支配(ほっかいどうのぶんりょうしはい)は、明治2年 (1869年) 7月から明治4年 (1871年) 8月まで、開拓使が管轄する北海道を諸藩、士族、庶民の志願者に分割して支配させた体制のことである。
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[編集] 分領支配の開始
明治の初め、新政府内部では、蝦夷地の開拓と北方防備の必要を説く意見が盛んだった。しかし現実には予算人員とも不足して事業を起こせる状態ではなかった。そこで、諸藩に振り分けて開拓させる制度を設けた。
明治2年 (1869年) 7月22日に、「蝦夷地開拓のことは、先般の御下問にもあった通り、今後諸藩士族庶民に至るまで、志願次第を申し出た者に相応の地を割譲し、開拓を仰せ付ける」(現代文訳)という布告を出したのが、分領支配の制度的開始である。これ以後、団体・個人に個別に土地が分与された。なお、この時点でまだ日本には近代的な土地所有制度が確立していないので、布告の表現からは割譲地の性格が読み取れないが、幕藩体制の延長のような領有支配を意味する。
[編集] 分領支配の条件
開拓に際しては、個別の許可に際して条件が付けられた。おおよそ以下のような条件が共通する。
- 百姓、町人など差別なく自由に移住させる
- 既存住民と土人を差別しない。(ここで土人とは、アイヌを指す。)
- 政府から経費は一切出さない
- 政事と刑賞との大事、隣接地との関係事項については伺いを立てる
- 課税は自由だが、移出入の運上金は別
[編集] 分領支配の実態
分領支配に関与したのは、1省、1府、24藩、2華族、8士族、2寺院の計38であった。他に、開拓使の直轄領と、開拓使の管轄外にある館藩(松前藩の後進)があった。諸藩の多くは財政難で熱意がなく、約三分の一が受領前に返上を願い出ており、受領した藩も予備調査や官吏の派遣だけにとどまったところが大半であった。
開拓に熱心だったのは、仙台藩、斗南藩、佐賀藩の3藩と、仙台藩の伊達邦成、伊達邦直、片倉邦憲や徳島藩の稲田邦植のような士族に限られた。彼らは分領廃止後もそれぞれの居住地で開拓を継続した。他に、松前藩時代から北海道に縁があった東本願寺が、室蘭と札幌を結ぶ本願寺道路の開設に力を尽くした。
兵部省は、会津降伏人を北海道に移住させる計画をたて、部分的に実施に移してから開拓使に管轄を遷した。東京府は、府下の貧窮者を移住させる計画で根室を領有したが、現地の松本十郎開拓判官の反対にあって、すぐに断念した。
[編集] 分領支配の廃止
以上のように、分領支配下の開拓は、全般に低調であった。そのため、廃藩置県の直後、明治4年 (1871年) 8月にこの制度を廃止して、館県を除く全土を直轄地にした。