古田重恒
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古田 重恒(ふるた しげつね)は、江戸時代の大名。石見浜田藩の第2代藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長8年(1603年) | |||
死没 | 慶安元年6月16日(1648年8月4日) | |||
官位 | 従五位下、兵部少輔 | |||
戒名 | 関雄宗三休岩寺 | |||
別名 | 希少丸(幼名) | |||
藩 | 石見浜田藩主 | |||
氏族 | 古田氏 | |||
父母 | 父:古田重勝、母:石河光政の娘 養父:古田重治 |
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妻 | 正室:古田重治の長女 | |||
子 | なし |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
1603年、伊勢松坂藩主・古田重勝の長男として山城国にて生まれる。1606年に父が死去したとき、まだ4歳という幼少だったために後を継ぐことができず、家督は叔父の重治が継ぐこととなった。そして1623年5月、叔父の重治から家督を譲られて藩主となったのである。同時に叙任している。その後は藩主として大坂城普請や1637年の京極忠高改易後の松江城在番で功績を挙げている。
[編集] 古田騒動
1646年6月、江戸にある藩邸において、古田騒動が始まった。重恒は40歳を過ぎても子に恵まれなかった。このため、後継ぎが無いために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子として後継ぎにしようと画策した。ところがその計画を加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒にそれを伝えてしまう。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺してしまったのである。そして1648年6月16日、重恒は嗣子無くして46歳で死去。後継ぎが無く、ここに古田氏は改易されたと言われている。
この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が、3名の家老の権勢を疎んじて重恒にこの3名のことを讒言し、それを信じた重恒が3名の家老を殺害。しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺してしまったと言われている。
いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため1648年の重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となったのである。
墓所:東京都港区高輪の泉岳寺寿仙院。島根県浜田市真光町の宝珠院。
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