浜田藩
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浜田藩(はまだはん)は石見国浜田(島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城。
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[編集] 藩史
石見国は中国地方の大半を領有していた毛利氏の所領であった。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗北し、周防国・長門国の2国に減封となり石見国は天領となった。
元和5年(1619年)伊勢国松坂藩より古田重治が石見国の一部5万4千石を与えられ入封し、浜田藩が立藩した。藩庁のおかれた浜田城は、かつて吉川家なども陣屋をおいたとされる鴨山に古田家が新たに築城したものである。築城の際、鴨という名は城地にふさわしくないとして亀山に地名が改められ、城の別称は亀山城と呼ばれた。慶安元年(1648年)2代・重恒は重臣を斬殺するというお家騒動(古田騒動)を起こし改易となった。
慶安2年(1649年)播磨国山崎藩より松平(松井)康映が5万石で入封。5代にわたって在封の後、宝暦9年(1759年)下総国古河藩に転封。代わって同地より徳川四天王の本多忠勝の嫡流である本多忠敞が5万石で入封した。3代在封の後、明和6年(1769年)本多氏は三河国岡崎藩へ。代わって同地に転封していた松平(松井)康福が再度55,400石で入封。康福は老中としての精勤を賞され1万石の加増を受けた。3代・康任の時代の天保7年(1836年)竹島を仲介所とする李氏朝鮮・清との密貿易が間宮林蔵の密偵により発覚し、康任は老中を罷免され蟄居される竹島事件が起る。このため、次の藩主・康爵は同年に陸奥国棚倉藩へ転封となった。
同、天保7年に上野国館林藩より6代将軍・徳川家宣の弟・越智清武を祖とする松平(越智)斉厚が6万1千石で入封した。
15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った4代・武聰は、慶応2年(1866年)第二次長州征伐の折、浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍に悉く撃破された。浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄し松江城に逃れた。その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田の街は焼き払われ浜田城も同時に灰燼に帰した。
その後、浜田は長州藩の占領下となり廃藩。明治2年(1869年)版籍奉還により隣接して同じく長州藩の占領下にあった天領・石見銀山領とともに大森県となり、さらに明治4年(1871年)県庁が浜田へ移転され浜田県となった後、島根県に編入された。
[編集] 歴代藩主
[編集] 古田(ふるた)家
外様 5万4千石 (1619年 - 1648年)
[編集] 松平(まつだいら)〔松井(まつい)〕家
譜代 5万石 (1649年 - 1759年)
- 康映(やすてる)〔従五位下・周防守〕
- 康宦(やすひろ)〔従五位下・周防守〕
- 康員(やすかず)〔従五位下・周防守〕
- 康豊(やすとよ)〔従五位下・周防守〕
- 康福(やすよし)〔従四位下・周防守、侍従〕
[編集] 本多(ほんだ)家
譜代 5万石 (1759年 - 1769年)
[編集] 松平(まつだいら)〔松井(まつい)〕家
再封 5万5千石→6万5千石 (1769年 - 1836年)
[編集] 松平(まつだいら)〔越智(おち)〕家
親藩 6万1千石 (1836年 - 1866年)
[編集] 鶴田藩
鶴田藩(たづたはん)は幕末から明治初頭まで存した藩。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐の際、松江城に逃れた松平(越智)武聰は浜田藩の飛び地であった美作国久米郡鶴田(岡山県岡山市建部町)まで落ち延び、幕府より蔵米2万石を支給された。翌、慶応3年(1867年)美作国内に鶴田8千石に加え新たに所領2万石を与えられ2万8千石で立藩。慶応4年(1868年)5月、明治政府より加増があり最終的に6万1千石の石高となった。鶴田藩は明治4年、廃藩置県により鶴田県となり北条県を経て岡山県に編入された。