土井勝
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土井勝(どい まさる、1921年1月5日 - 1995年3月7日)は昭和中期から平成期(1950年代後半-1990年代前半)の料理研究家。香川県出身。海軍経理学校卒、戦艦「大和」元乗員。
[編集] 来歴・人物
1953年、後の「土井勝料理学校」の母体となる「関西割烹学院」を設立。日本の家庭料理の研究と普及に尽力。著書多数。昭和28年の試験放送よりテレビ放送に出演。NHK総合テレビの「きょうの料理」や、テレビ朝日「土井勝の紀文おかずのクッキング」などにも出演し主婦層を中心に手軽に作れる家庭料理を数多く紹介、「おふくろの味」を流行語にした。
関西地域に於ける家庭料理の第一人者として、没後の現在でも広く知れ渡った名前であり、田村魚菜と並び称される程の丁寧で上品な話し方、独特の柔らかい関西イントネーション(共通語にしようとしているが、どうしても出てしまうという意味。関西弁とはまた違う)と微笑を絶やさず、的確にコツを教える辺りは、5分番組である「おかずの…」の経験が活きているのかも知れない。幼少時に「母の包丁の音」を楽しく聞いた彼は家庭の中の料理に重点を置き、毎日の生活の中、家庭で作られる料理を徹底的に追及した。料理の基本を柔らかな語り口で、視聴者に教えた功績は計り知れない。中でも、15年がかりで編み出したといわれる、おせち料理の黒豆を簡単に煮上げる方法は殊に有名である。そして、50年の集大成『日本のおかず500選』は、没後の今でもベストセラーとなっている。
土井の名声と実力は在世中、全国レベルであった。彼は晩年まで、あまり表には出さなかったが、その料理の基本には「母の包丁の音」と「海軍生活」があったことを見逃すわけにはゆかない。彼は、海軍経理学校時代より技量成績優秀であった。結果「大和」乗組みが下命された。彼は終生、帝国海軍一の軍艦の乗員であった事を誇りにしていた。反面、大和の最後の出撃の直前に退艦を命じられ、生き残ったことに終生負い目を感じていた。彼がいた筈の持場に落ちた爆弾で、主計科の彼の戦友は殆どが戦死したのである。
彼の包丁には、暖かい少年時代の家庭の台所の思い出と、殺伐とした軍艦の烹水所の技術とが混在する。例えば、少ない水で旬の野菜を蒸す様にゆでるやり方は、水と燃料が貴重なフネの料理法であり、また栄養を逃さない海軍伝統の方法であった。そして、これを披露した晩年の番組の中で、彼はニコニコしながら、少年時代の母のいる暖かい台所を思い出深く語っていたが、それが艦隊の料理法であることは一言も触れなかった。
決して派手ではなく、パフォーマンスも少なかったが、土井の料理方法の基本は合理的な調理であり、質実剛健な海軍経理学校の教本を体現したものに他ならない。その証左に商売の為の店舗も出していなければ、一部の者の口にしか入らない高級料理も扱っていない。彼は非人間的な戦争に得た技能と経験を、家庭という最も暖かくあるべき平和な場所で結実させた、多くの戦中派の一人であった。彼は若くして散った多くの戦友に対して、その義務を果たしたのである。
土井を「物腰の柔らかい人格者の料理名人」と最高級に褒める人が多い。現在でも土井の死去を知らずに「土井勝見ないなあ?」「病気なんじゃないの?」と言う会話が折に触れて関西圏では見られる。「おかずのクッキング」の司会は土井が体調を崩してからは次男の土井善晴が引継ぎ、現在は週1回放送している。1995年3月7日肝臓がんのため大阪市の自宅で死去。享年74。
[編集] エピソード
没後10年たった2005年9月3日、土曜日放送の「食べて元気!ほらね」で息子の善晴が著書『土井善晴の男の料理教室―食べて元気! ほらねABC朝日放送』を宣伝する際、誤って「土井勝の男の料理教室―食べて元気!ほらね」と言ってしまった事もあった。元文化放送アナウンサー・司会者の土居まさるとは同音異字。