土岐頼貞
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土岐 頼貞(とき よりさだ、文永8年(1271年)-暦応2年(1339年))は鎌倉時代から南北朝時代の武将。土岐光定の七男。母は執権北条貞時の娘。妻は平宗頼の娘。室町幕府の初代美濃守護。伯耆入道。
土岐氏は清和源氏の流れをくむ美濃を地盤とする有力御家人で、鎌倉幕府から重んじられ北条氏とも縁を結んでいた。
母が北条氏であったことから、頼貞は若年時は鎌倉で過ごし、そこで禅宗の高僧たちに帰依し、特に夢窓疎石と親交を結んだ。夢窓疎石は美濃国に永保寺(多治見市)を開いている。騎射をよくし、また優れた歌人で『新千載集』などに和歌が残っている。
正中元年(1324年)、土岐氏の一族(土岐頼員など)が後醍醐天皇の最初の討幕計画(正中の変)に関与し、六波羅探題に察知されて多治見国長(美濃源氏)ら一派は追討を受け、土岐氏惣領の頼貞も幕府から関与を疑われている。『太平記』では頼貞は六波羅探題の兵を相手に奮戦して自害することになっているが、頼貞は存命で、その後の戦乱で活躍して美濃守護となっているので、『太平記』の記述には混乱がある。
元弘3年(1333年)後醍醐天皇の詔を受けた頼貞は討幕の挙兵をして、足利尊氏の軍に加わった。後醍醐天皇の親政(建武の中興)では美濃守護に任じられた。以後、二百年、美濃の守護は土岐氏が継承する。
失政が続いた建武新政府に対して足利尊氏が挙兵すると、頼貞とその嫡男の頼遠はこれに従い南朝との戦いで数々の戦功をあげた。
土岐氏は美濃一帯に一族の支流を配して「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成し、幕府軍を支える戦力となっていた。頼貞は「御一家(足利氏)の次、諸家の頭」と呼ばれ室町幕府内で重きを置いた。
頼貞は禅宗に深く帰依し、美濃国内に数々の寺院を開基させたことでも知られる。
頼貞の後は婆娑羅大名で知られる勇猛な頼遠が継いだが、光厳上皇に狼藉を働いて処刑されてしまう。土岐氏の惣領は十一男の頼明を経て(短期間だったため、一般には頼明は後二代として歴代には数えない)、孫の頼康が継ぎ、頼康の時に美濃に加えて尾張、伊勢の守護を兼ねて、土岐氏は全盛期を迎える。