土持氏
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土持氏(つちもちし)は、平安時代末期から戦国時代前期にかけて、日向国北部を中心に勢力を有した一族。現在の延岡市近辺を中心とした県土持氏と現在の高鍋町付近を活躍の場とした財部土持氏が有力であった。
[編集] 経歴
平安時代には既に日向国の荘園領主としてその名を見ることが出来る、古くからの土着豪族であり、押領使としてその名を見ることが出来る一族であるが、その実、出自がはっきりとしていない。「延陵世鑑」という一族の歴史を綴った文書が残されているが、精査すると全体について正確性を疑わざるを得ない部分もあり、史料性にかけるという事情がある。
姓は田部氏であり、宇佐八幡宮の社人とされる。日向国北部に広く存した宇佐宮荘園の差配として、勢力を伸張させ、日向の有力な一門であった日下部氏を何らかの方法で乗っ取り、姓を改めたということである。
土持の名の由来であるが、一説に、欽明天皇32年(570年)、宇佐八幡宮を造営する際に、田部宿禰直亥が、土を盛るのにその袖でくるみ運んだところ、これが崩れなかったのを欽明帝に褒められ姓を賜った、とある。
一族が最大に繁栄した頃は、当主は太郎宣綱で平安末のこと。土持七頭(なながしら)と呼ばれ、県(あがた)・財部・大塚・清水・都於郡(とのごおり)・瓜生野(うりゅうの)・飫肥(おび)に勢力を誇った。引き続き、鎌倉時代になると、幕府御家人として、宇佐宮荘園における地頭職を拝した。
土持氏の歴史を語るのに伊東氏を外して語ることは出来ない。当初、日向に地盤を持たない伊東氏は地元の有力者である所の土持氏と婚姻関係を積み重ね日向に浸透していった。有力な武将を必要とした土持氏の側もこれを歓迎した。
時代が南北朝時代にはいり、観応の擾乱がおきると、日向守護職に補任されていた畠山直顕は足利直義側になったため、その配下といえる立場にいた両氏は袂を分かつことになる。
この後、たびたび両者は抗争を繰り返すのであるが、概ね伊東氏の優勢に終始していた模様である。惣領である県土持氏は井上城・西階城・松尾城と次々に城を築き、県地方では確固たる勢力を築き上げたのであるが、他の土持氏は、島津氏や伊東氏などに糾合され、その姿を消してしまっている。
残った宗家も、伊東氏との対抗のため、豊後において大勢力となった大友氏に臣従し、また、伊東氏の背後を脅かしていた島津氏とも盟を結び、戦国時代の後期まで、その命脈を保った。しかしながら、1577年(天正5年)島津氏が日向に侵攻し、伊東氏を敗走させると、大友氏・島津氏の一騎打ちの様相となり、1578年(天正6年)島津氏邀撃のため日向入りした大友宗麟は、土持氏の二股膏薬的な態度に激し、これを松尾城にて攻め滅ぼし、700年の名門の命脈は絶たれた。
尚、幕末の志士にも土持の姓を見つけることが出来る。土持政照は沖永良部島の人で、西郷隆盛の義兄弟として知られている人物である。他、土持左平太・土持雄四郎・土持直五郎の名を散見することが出来る。