垓下の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
垓下の戦い(がいかのたたかい)は、紀元前202年に西楚と漢との間で垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)を中心に行われた会戦。楚漢戦争における最後の大戦闘である。
目次 |
[編集] 垓下の戦いまでの流れ
広武山の戦いを天下二分の盟約を結ぶことで終わらせた、西楚の覇王項羽と漢王劉邦であったが、劉邦は側近の張良、陳平等の進言を容れ、斉王韓信と梁の相国彭越を誘って、帰還中の楚軍の背後を襲い、これを一挙に殲滅せんとした。
そこで劉邦は、両名に陽武で合流することを申し入れるも、両者は姿を見せず、やむなく劉邦は固陵に進み、両者を待つこととなった。一方、項羽は劉邦の裏切りを知るや、兵を引き連れ、固陵に攻め込み漢軍を大破。劉邦は成皐に逃走する。 成皐に入り、ようやく死地を脱した劉邦は、張良に尋ねる。「何故、韓信も彭越も来ないのか」 張良は答える。「漢王様、それは、彼等が恩賞を欲しているからです。韓信には領地を加増してやり、彭越には梁王を名乗ることと梁を領地として認めてやれば、この二人は必ず王様の下に馳せ参じましょう」
劉邦はこの進言を容れ、そのようにした。また項羽を討ち取ったものには多大な恩賞を約束する。その効果は明瞭に現れ、両名は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに英布や張耳といった各地の諸侯もこれを見て続々と参陣。また、劉賈の説得により項羽の側近であった周殷も裏切り、劉邦の下に60万とも100万ともいわれる未曾有の大軍勢が集結したのである。
劉邦はこの大軍勢の指揮を韓信に委ねた。これだけの数の大軍勢を手足のごとく扱えるのは韓信を措いて他にいないからである。韓信は項羽を討つべく、軍を垓下に進めた。項羽も垓下に軍を進める。その数は30万。
[編集] 垓下の戦い
垓下において両軍は交戦する。初めの内は楚軍が優勢だったが、徐々に漢軍が盛り返す。
前に20倍近い兵力差の漢軍を破ったこともある項羽と楚軍だったが、今回は韓信が万全の布陣をしており、油断も慢心もなく、恩賞が大きいため将兵の目の色が違った。しかも兵力差は3倍。流石の項羽と楚兵でもそれを破ることは出来なかった。犠牲を増やしながらも戦うが、その隙に居城を落とされる。項羽は勝てぬと見て陣屋に逃走する。漢軍はそれを囲むが、事態は膠着する。
いくら大軍だからといって、力攻めをしても、相手は不世出の豪傑・項羽であり、彼が率いるのは、これまた精鋭ぶりを天下に知られる楚軍である。下手をすれば大損害を喰らうどころか、形勢の逆転をも招きかねない。如何に名将、名軍師の誉れの高い韓信や張良でもそうなっては手の打ちようがないのである。
この時残る楚兵は5万。しかも兵糧が遠征でもないため多くは持って来ておらず、城にも戻れないため補給も出来ず、その残りは少なかった。
[編集] 四面楚歌
そうこうしている内に幾日かが過ぎたある夜、楚軍の陣屋で騒ぎが起こった。自陣を包囲する敵の陣から故郷である楚の歌が聞こえてくるのである。それも四面(城塞は四角なので対する全方向)が歌っている。兵士達は驚き騒いだ。「故郷の楚も敵の手に落ち、包囲する兵にも楚の人間が多数いる。この歌はそれを知らせているのだ」と。そして遠征に次ぐ遠征で長く帰れていない郷里を想い、涙した。 この故事を「四面楚歌」という。
飢えと郷里への想いもあり、最早自分たちだけ抗っても意味はないと兵士達は次々と逃げ出す。或る者は漢軍に降り、また或る者は故郷へと帰って行く。さらには、項伯や鐘離昧→鍾離昧、季布といった楚軍の有力な将軍までも、陳平の離間の計で項羽から遠ざけられていたことや激昂しやすい性格などから項羽を見限り、兵達に混じって逃亡する。
この歌の出所は言うまでもなく、韓信と張良であった。 『まともにぶつかればこちらも大損害を喰らう。それならば心を攻めて、戦意を奪ってしまおう』 両者の熟慮の結果がこれであった。そして厳重に包囲し兵糧攻めにする一方、兵達に楚の歌を習わせ、「故郷へ帰ろうとする敵の者は、身分の上下を問わず、皆、逃がしてやるよう」との軍令を出していた。 包囲する漢軍は武器を捨てた楚兵を黙って通した。そして楚陣に残ったのはたったの八百騎のみとなった。
知らせを聞き、項羽は殆ど空となった自陣を見、自分でも敵陣から流れる楚の歌を耳にして、ことがすでに決したことを悟る。そして、愛妾の虞美人等とともに最後の宴を開き、自ら歌った。 「力は山を抜き、気は世を覆う。時、利有らずして、騅行かず。騅行かざるを如何せん。虞や虞や汝を如何せん」(垓下の歌)。自分は最早これまでかも知れないが、虞美人には生きて欲しいという歌である。
翌朝、項羽は残る兵を連れ出陣した。圧倒的多数相手ながら、その勇猛さは衰えず、残る兵も同様でしかも決死の覚悟がある。兵を減らしながらも、幾重にも渡る囲みを突破し、追う漢兵の大群を蹴散らし続け、項羽と二十数騎は烏江にたどり着いた。河を渡れば自らが蜂起した始まりの場所、江東である。
そのとき、一人の亭長(宿場役人)が項羽を見つけていう。 「楚王様、早くこの船に乗ってお逃げなさい。逃げて再起を図るのです」 しかし、項羽はこれを断る。江東を見て、同じ故郷の兵達を皆死なせたのに自分だけ生きて帰っても、と思いが変わったのである。そして言う。 「これは、俺が弱いからこうなったのではない。天が俺を滅ぼそうとしているのだ。どうあがいても致し方あるまい」 そして、数千を数える追っ手に突っ込み、数百人を切った後、自らの首を刎ねてその生涯を閉じた。
これにより、約5年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦のもとに前後約400年続く漢王朝の基が開かれることとなったのである。
[編集] 追記
項羽の悲劇的な最期等により、後世の歴史家、文学者に何かと影響を与えた垓下の戦いであるが、近年、これをただ楚漢戦争の終結として受け止めるのではなく、春秋戦国時代の総決算としてみるべきであるとする考え方が一部の研究者の間で出ている。なおこの楚の歌の逸話から、周りすべてが敵となった状況を「四面楚歌」というようになった。
また後の世、この江東を訪れた杜牧により「項羽が落ち延びていれば……」と歌に読まれ、これが「捲土重来」の語源となっている。