英布
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英 布(えい ふ、生年不明 - 紀元前195年)は、秦末から前漢初期にかけての、武将、政治家。楚漢戦争期の九江王。前漢初期の淮南王。通称・黥布。六(りく、安徽省六安県)の人。
[編集] 略歴・人物
少年時代、ある占い師から、その人相について占われ、
- 「あんたは、いずれ刑罰を受けることになるが、その後に王になるだろう。」
と、予言された。それからしばらくして、本当に刑罰を受け、刺青を入れられると、
- 「これで、俺は王になれることが決定したぞ。」
と、かえって喜んだという。通称の黥布はこのことに因んでつけられたものであり、日本風に言い直せば、「刺青の布さん」ということになる。
秦末の動乱期に、仲間と語らって挙兵し、項梁に仕え、項梁の戦死後は、項羽に仕えた。 項羽の下で、反秦戦争に従軍し、その先陣として、また汚れ役(項羽率いる楚軍に降伏した、秦軍20万人を殺害した。)として活躍、秦滅亡後に、項羽の配下では唯一、九江王に封建される。一説によれば、この直後に英布は項羽の命で、義帝を殺害したという。 しかし、この頃から、項羽と何かと対立するようになり、劉邦が派遣した同郷で説客・随何の説得に応じて、劉邦の配下として与することとなる。
紀元前202年、垓下の戦いで、項羽が死に、劉邦が皇帝(高祖)に即位し、前漢が成立すると、英布は淮南王に封建される。しかし、この頃から、劉邦やその妻・呂雉を中心に異姓諸侯王廃絶政策が実施される。このために紀元前196年の春に韓信が、夏に彭越が反乱を企てたとの名目で処刑され、さらに彭越の死体の肉の一部が塩漬けとして、見せしめのためにに英布を初めとする諸侯王に劉邦から送られた。そのことで、英布は「いずれ俺も殺される。」と、反乱の準備を整えはじめた。さらに英布が自分の側室と通じたと疑い、監視していた家臣の中大夫の費赫が、英布に誅殺されるのを恐れて劉邦に英布の反乱の計画を密告。追い詰められた英布はついに同年の秋に謀反を起こした。当初は、荊王・劉賈及び楚王・劉交の軍を破り、劉賈を殺し、劉交を捕虜とするなど大いに気勢を上げたが、親征して来た劉邦と交戦し劉邦が流れ矢に当たり負傷(のちにこの矢傷が元で劉邦は死亡する)するなどしたが英布の軍は破れ、英布は妻の弟である、長沙王・呉臣の元へ逃れた。だが、関わるのを嫌った呉臣は腹心の利倉に英布の処分を任せた。利倉は鄱陽湖のほとりにある慈郷の館で酒宴を開き、英布を酔わせて寝室で彼の寝首を掻き騙し討ちにして殺害した。時に紀元前195年のことであった。(殺害後、遺体を呂雉にバラバラにされたといわれている) 冷血残忍な一世の梟雄としての英布の凄まじい末路であったといえよう。