堀田正愛
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 寛政11年1月13日(1799年2月17日) | |||
死没 | 文政7年12月28日(1825年2月15日) | |||
別名 | 鍋太郎、雄之丞(幼名) | |||
戒名 | 信阿迫行箕蓬丘謙良院 | |||
墓所 | 東京都台東区西浅草の日輪寺 | |||
官位 | 従五位下、相模守 | |||
藩 | 下総佐倉藩主 | |||
氏族 | 堀田氏 | |||
父母 | 父:堀田正功、母:大島氏(豊瀬) 養父:堀田正時 |
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妻 | 正室:小笠原忠固の娘・鈴姫 継室:松平治郷の娘・幾千姫(謙映院) |
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子 | 雄之丞 養子:堀田正睦 |
[編集] 生涯
寛政11年(1799年)1月13日、第2代藩主・堀田正順の嫡男・堀田正功の長男として生まれる。父の正功は第3代藩主となるはずであったが、享和2年(1802年)に早世したため、第3代藩主には叔父にあたる堀田正時が就任した。正時が文化8年(1811年)に死去すると、その養子として第4代藩主となった。
佐倉藩では22万1160両の借金に悩まされていた。ところが、文政4年(1821年)に陸奥白河藩の松平定信・定永親子から江戸湾警備の負担に耐え切れない事を理由に江戸湾に近い同規模の佐倉への転封希望が出された。しかし正愛は移封されることが大きな負担になることを恐れて、同族で若年寄だった堀田正敦(堅田藩主)と協力してこれを食い止めた。だが、その見返りとして白河藩に替わって佐倉藩が江戸湾警備にあたるとする密約が交わされたと言われている(実際、2年後に勘定奉行遠山景晋より佐倉藩に対して、白河藩の桑名藩移封を理由に江戸湾警備の交替が命じられている)。そのため正愛は向藤之益(左衛門)を用いて財政再建を主とした藩政改革を行なった。主な改革は質素倹約、藩債の整理、蔵元制度の改革などであったが、これらはいずれも効果がほとんど無かった。また、度重なる外国船の出没に備えた海防警備強化により江戸湾以外の房総沿岸も管轄に含まれる事になり、更なる財政負担に重くのしかかった。晩年は向藤之益の急死に加えて、自身も病気がちで政務が執れない状況にあったため、堅田藩の堀田正敦が事実上の後見役に就いた。
文政7年(1824年)12月28日に死去。享年26。後を養子の堀田正睦が継いだ。
[編集] 逸話
- 財政改革で行なった質素倹約は特に厳しいもので、自らもかなり質素にしていたという。そのため、譜代の名門から嫁いできた最初の正室・鈴姫はあまりの質素さに驚いて離縁し、実家に戻った。
[編集] 参考文献
- 針谷武志 「佐倉藩と房総の海防」(吉田伸之・渡辺尚志 編『近世房総地域史研究』(東京大学出版会、1993年 ) ISBN 4130260561 )
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