堀田正養
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堀田 正養(ほった まさやす、嘉永元年2月28日(1848年4月1日) - 明治44年(1911年)5月9日)は、近江宮川藩の第9代(最後)の藩主。亀田藩主岩城隆喜の八男。幼名は三四郎、駒之助。官位は従五位下、正五位、従四位、正四位、従三位。豊前守、出羽守、豊前守。
1863年7月4日、養父正誠の死去により、末期養子として家督を相続した。同年11月26日従五位下豊前守に叙任する。後に出羽守、豊前守に改める。1864年7月大坂加番を命じられる。1869年6月23日版籍奉還により、宮川藩知事となる。1871年7月14日廃藩置県により免官される。同年9月東京に移住した。
1878年12月東京府会議員選挙に際し、浅草区から出馬、当選する。1879年3月府会副議長に就任する。1880年1月東京府赤坂区長に就任した。1881年6月下谷区長、8月深川区長に転じた。1884年7月8日子爵になる。1889年2月27日免職となる。1890年7月10日貴族院議員に選ばれる。研究会に所属し、連続して三期にわたって議員に選ばれた。1908年3月25日第一次西園寺公望内閣の逓信大臣に就任した。同年7月西園寺内閣総辞職にともなって退任する。だが、堀田の入閣は研究会の事実上の指導者であった清浦奎吾の進める超然主義路線を否認するものであるとの非難を受け、1909年4月17日所属していた研究会を除名される。1911年5月9日、64歳で死去した。
正室は堀田正誠の娘。長女錫に養子正亨を迎えた。
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