西園寺公望
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生年月日 | 1849年12月7日 (嘉永2年10月23日) |
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出生地 | 京都府 |
出身校 | ソルボンヌ大学留学 |
学位・資格 | 正二位 大勲位菊花章頸飾 公爵 |
前職 | 明治法律学校講師 オーストリア公使 ドイツ公使 ベルギー公使 賞勲局総裁 法典調査会副総裁 貴族院副議長 枢密顧問官 文部大臣 内閣総理大臣臨時代理 立憲政友会総裁 |
世襲の有無 | 貴族院華族議員 |
在任期間 | 第12代: 明治39年1月7日 - 明治41年7月14日 |
選挙区 | 貴族院華族議員 |
当選回数 | 貴族院華族議員 |
所属(推薦)党派 | 立憲政友会 |
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は日本の公家、政治家。第12・14代内閣総理大臣。正二位、大勲位、公爵。1924年に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。
目次 |
[編集] 生い立ち
西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4才の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原房前を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。実父は右大臣徳大寺公純、実兄は3度にわたって侍従長となり、内大臣もつとめた宮中の実力者徳大寺実則。すぐ下の弟の隆麿は住友家の入り婿となり、財閥を継いで第15代住友吉左衛門(友純)を襲名し、長く財界に君臨した。そして、末弟の威麿は母方の末弘家を継ぎ、後に私立京都法政学校(現在の立命館大学)の幹事・理事などを務めている。
幼少時には、住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、祐宮(のちの明治天皇)の遊び相手として度々召された。
[編集] 幕末・明治維新
西園寺には、岩倉具視や三条実美のような幕末期における政治的功績はほとんど皆無であった。ただ鳥羽・伏見の戦いがはじまると、朝廷ではこれを徳川家と島津家の私闘と見なす意見が出る中にあって、積極的な関与・主戦論を主張し岩倉具視ら倒幕派公卿に注目された。以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、会津口征討大参謀として各地を転戦する。その後は越後府知事などを歴任したが、その当時、西園寺は10代の青年であり、この若さで任官できたのは家格の後光以外に理由を見出すことは困難である。また公卿の中で初めて洋装で宮中に参内し、未だ多く残る攘夷派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。
作家の司馬遼太郎は著書『花神』で、倒幕派の兵学者大村益次郎が、西園寺を後継者と目していたという立場を取っているが、実際には西園寺に「あなたは軍隊は向いていない」と言っている。
官を辞した西園寺は公家風の名を嫌って「望一郎」と改名した後、大村の推薦によって1871年、官費でフランスに留学した(後に減額を申し出ている)。その礼を言うために大村を訪れる直前、親友が駆け込んできて長談義となり、その間に大村益次郎が襲撃されるという事件が起こった。
フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められてとまどうといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。留学中、後のフランス首相クレマンソーや、留学生仲間の中江兆民・松田正久らと親交を結び、この人脈は帰国後も続いた。なおこの留学中にパリ・コミューンの争乱が起こり、西園寺はそれを間近に見ている。
パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、1881年3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権に加担するのは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。
[編集] 政治家としての西園寺
西園寺の政治家としてのキャリアは1882年、伊藤博文が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際、それに随行したことにはじまる。ヨーロッパで伊藤の知遇を得た西園寺は、1900年の立憲政友会旗揚げに参画し、1903年には総裁になった。その後、大正天皇即位の際に元老の一人に列せられた。
西園寺は思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから国家主義に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。西園寺は政治力が無かったという見方をされることが多いがこれは誤りで、山縣有朋の死去後政治力で彼を上回るものは当時の日本には存在しなくなった。宮中・財界との姻戚関係を背景に、彼は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に教育勅語の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。
西園寺は立命館大学に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓の藤原姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一が満州某重大事件の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、皇道派将校の反感をも招いた。
[編集] 第1次護憲運動
第2次西園寺内閣は基盤とする与党政友会が衆議院で絶対多数を占めたこともあり、行財政改革に着手した。1913年(大正2年)の予算策定に向けて歳出1割減を目標としたが、陸軍は2個師団の増設を要求し、海軍もまた戦艦3隻建造を予算案に盛り込んだ。陸軍は西園寺内閣を倒してでも2個師団増設を達成すべく奔走し、内閣があくまでも拒否との方針を示すと、上原勇作陸相は天皇に直接辞表を提出した。
陸軍大臣には直接天皇に上奏する帷幄上奏が制度上認められてはいたが、閣僚が首相を通さずに直接天皇に辞表を提出したのは前代未聞のことであった。また、陸軍が後任の陸相を出さない限り西園寺内閣は陸相が得られず辞任する他はなく、当時陸相辞任の影響は非常に大きかった(軍部大臣現役武官制)。
西園寺は、この後大正天皇に呼び出され、天皇の口から陸相の辞表提出の件を知らされた。西園寺は、後任の陸相について陸軍の実力者山県有朋にも相談したが、山県が後任の陸相を出す気がないことを察すると、機先を制して総辞職した。
政友会を通じて内閣総辞職の内幕が知れ渡ると国民の間ににわかに閥族打破、憲政擁護の機運が高まり第1次護憲運動となった。政友会は立憲国民党の犬養毅らと提携し、護憲運動の陣頭に立ち、西園寺内閣の後任の第3次桂内閣と対立した。ただし、政国提携や国民に向けた演説会などには西園寺は直接タッチしていないようで、これらは政友会の幹部である原敬や松田正久らと、国民党の犬養毅、尾崎行雄が中心となっていたようである。
議会はもとから政友会が絶対多数であったので、議会が開始されると政友会・国民党は内閣不信任案を提出し桂内閣は窮地に立たされた。そこで閥族側では、イギリスのジョージ5世が即位した折に即位直後であることを理由に自由党と保守党との政争をやめるよう命令し、それを実現させたという話にならい、ちょうど大正天皇が即位して間もない頃だったので、勅語を出すという形で西園寺公望に対し政争を中止するように諭した。
政友会では天皇の意思であるならそれに従うよりほかはないと、不信任案を撤回して、ひとまずは桂内閣に貸しを作ろうという意見が一時有力になった。しかし、これに国民党の尾崎行雄が強行に反発した。そして、犬養毅の助言で西園寺は政友会総裁を辞任し政友会自体はあくまでも内閣退陣を要求するということになった。この折に海軍の山本権兵衛が政友会本部を激励のために訪れた。
結局、護憲運動の高まりで桂内閣は1913年2月11日に総辞職し、同日後継首相を決めるための元老会議が開かれた。このときの会議には西園寺もはじめて元老として出席した。しかし、政友会の代表としての出席では決してなかった。会議では、最初に西園寺が後継首相に推薦されたが、これを受ければ勅語に反することになるとして西園寺は固辞した。結局、後継首相には山本権兵衛が決まった。
[編集] 昭和
1926年(昭和元年)12月28日、践祚直後の昭和天皇は西園寺に対し特に勅語を与え(「大勲位公爵西園寺公望ニ賜ヒタル勅語」)、これにより、西園寺が「唯一の元老」として内閣総理大臣奏薦の任に当たることが事実上確立した。彼は1940年、米内光政内閣誕生の時までは何らかの形で首班指名に関与し続けることになる。
1936年の二・二六事件事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していたが実行されなかった。襲撃を主張する者は元老西園寺を君側の奸の最たるものと見なしていたのに対し、否定派は西園寺を天皇とのパイプとして利用することを表向きの口実としていたと言われる。
東京駿河台の本邸の他に、静岡県御殿場町の便船塚別荘、同じく静岡県興津の坐漁荘、京都の清風荘の各別荘に隠棲し、元老として重きをなした。最晩年になると、避暑のために御殿場に滞在する以外は、年の大半を冬期が温暖な坐漁荘で過ごしている。
1937年の近衛文麿第一次内閣成立以降は次第に政治の表舞台から退き、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立の2ヶ月後に死去した。期待していた近衛にも離反され、首相に推薦したことを最後まで後悔していたとされる。最後の言葉は「いったいどこへ国をもってゆくのや」であったと伝えられる。
1941年には近衛内閣のブレーンを勤める孫の公一が、ゾルゲ事件に関与したとして逮捕された。
[編集] 西園寺と教育
文部大臣時代の西園寺は、教養ある「市民」の育成を重視し、「科学や英語や女子教育を重視せよ」と言明していた。そして1890年に井上毅らが作った「教育勅語」に反対し、明治天皇から教育勅語改定の許可を得るとともに「第二次教育勅語」の作成に取り組んだ。この「第二次教育勅語」の草案は西園寺家から立命館大学に寄贈されて現存している。
また、以下の教育機関の設立にも関っている。
- 1869年 私塾「立命館」創設(京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された)
- 1880年 明治法律学校(現在の明治大学)創設に協力
- 1897年 第2の帝国大学(現在の京都大学)を京都に誘致
- 1901年 日本女子大学の設立発起人・創立委員
[編集] 略歴
- 1849年 清華家の徳大寺公純の次男として京都で誕生。
- 1851年 西園寺家の養子となる。養父は右近衛中将西園寺師季(もろすえ)
- 1867年 官軍山陰道鎮撫総督、北陸道鎮撫総督に任じられ、各地を転戦。
- 1869年 私塾立命館を京都御所の邸内に開設。
- 1871年 フランスに留学。ソルボンヌ大学で学ぶ。
- 1881年 中江兆民らと東洋自由新聞を創刊。
- 1884年 華族令施行に伴い侯爵となる。
- 1899年 大磯に別荘(隣荘)を構える。
- 1903年 立憲政友会の総裁となる。
- 1906年 第1次西園寺内閣: 以降、桂太郎と交互に組閣し、桂園時代と称される。
- 1908年 総辞職
- 1911年 第2次西園寺内閣
- 1912年 総辞職
- 1914年 政友会総裁の辞意を表明、後継に松田正久を推薦するが、松田が急死したために原敬を後継者とした。
- 1917年 大磯の別荘(隣荘)を池田成彬に売却。
- 1919年 パリ講和会議の首席全権 静岡県庵原郡興津町 (現静岡市清水区興津清見寺町)に別荘 (坐漁荘) を建て隠棲。以後政財界の要人が頻繁に興津の西園寺の元を訪れるようになり、「興津詣」(おきつもうで)という言葉が生まれる。
- 1920年 パリ講和会議首席全権の功で、公爵に陞爵(しょうしゃく)。
- 1940年 坐漁荘にて死去。国葬。遺言の指示通り、書簡、資料類が焼却される。
[編集] 栄典
[編集] 家族・親族
正妻はなく、新橋芸者玉八との間に娘、新をもうけた。新は毛利元徳公爵の八男・八郎と結婚し、公一、不二男など三男三女を産んだ。
[編集] 系譜
公實―實能―公能―實定―公継―實基―公孝―實孝―公清―實時―公俊―實盛―公有―實淳―公胤―實通=公維 =實久―公信―實威=公全―實憲―公城=實祖―公迪=實堅=公純―公望
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『西園寺公望伝』立命館大学西園寺公望伝編纂委員会 編、岩波書店、1990年、ISBN 4000087916 (第一巻)
- 『西園寺公望―最後の元老』岩井忠熊著、岩波書店、2003年、ISBN 4004308291
- 『西園寺公と政局』(全8巻、別巻1冊)原田熊雄著、岩波書店、ISBN 4002000222
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