後藤新平
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後藤新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、帝国主義の国家における卓越した植民地経営者で都市設計者。鉄道院総裁として、また満鉄総裁としてアジアの鉄道の発展にも尽力。また、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した。
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[編集] 生い立ち・医師としての後藤新平
陸奥国胆沢郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区吉小路)出身。後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の親族に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔をもつ。
胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、書生として引き立てられる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると、後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。母方の大伯父である高野長英の影響もあって医者を志すようになり、17歳で須賀川医学校に入学。同校を卒業後、安場が愛知県令をつとめていた愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し、24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。
1882年(明治15)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも、病院・衛生に関する行政に従事することとなった。
1890年(明治23)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で、同時に強いコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892年(明治25)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。
1893年(明治26)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され、最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。
[編集] 台湾における後藤新平
1895年(明治28)4月、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった陸軍参謀の兒玉源太郎の目にとまる。
1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで彼は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めた。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している。それは、社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものであった。
[編集] 台湾の調査事業
まず、台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘し、同時に自ら同会の会長に就任した。また同じく京都大学教授で法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっている。
[編集] 人材の招聘
また、開発と同時に人材の招聘にも力を注ぐのが彼の手法であった。アメリカから新渡戸稲造をスカウトする際には、病弱を理由に一度は断られるが、執務室にベッドを持ち込む事などの特別な条件を提示して承知させている。スカウトされた新渡戸は、殖産局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代であった。
[編集] 阿片漸禁策
また当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていた。これに対し後藤は、アヘンを性急に禁止する方法はとらなかった。まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少した。総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となった。なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止した。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのである。(阿片漸禁策)
こうして彼は台湾の植民地支配体制の確立を遂行した。台湾においては、その慰撫政策から後藤は台湾の発展に大きな貢献を果たした日本人として、新渡戸稲造、八田與一等とともに高く評価する声が大きいが、一方で植民地支配に対する抵抗への徹底した弾圧政策など『鞭』の側面を強く指摘する声も少なからずある。
[編集] 満鉄総裁
1906年、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30台、40台の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させている。
当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは、袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、1907年4月の東三省建置に当たっては、彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まず、アメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。
そこで後藤は袁世凱に直接書簡を送って、これが条約違反であることを主張し、計画を頓挫させた。ただし、満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしている。また、北満州に勢力を未だ確保していたロシアとの関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり、伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図している。(ただしこの会談は伊藤がハルピンで暗殺されたために実現しなかった。)
当時の日本政府では、満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。
[編集] 関東大震災と帝都復興計画、逝去
その後、第13代第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年7月14日-1911年8月30日)、第18代寺内内閣の元で内務大臣(1916年10月9日-1918年4月23日)、外務大臣(1918年4月23日-1918年9月28日)、しばし国政から離れて東京市長(1920年12月17日-1923年4月20日)、第22代第2次山本内閣の元で再び内務大臣(1923年9月2日-1924年1月7日、後述)などを歴任した。
鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線に、その名前を取った「しんぺい」号が走っている。
1919年、拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任。
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった。(議会に承認された予算は、3億4000万円)それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。
特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小がされながらも実際に建設された。当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90mで、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の時代では受け入れられなかったのも無理はない。現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。また、文京区内の植物園前 - 播磨坂桜並木 - 小石川5丁目間の広い並木道もこの計画の名残りであり、先行して供用された部分が孤立したまま現在に至っている。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといって良い。
昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を行なえた事で、その先見性が改めて評価された事例もあり、もし彼が靖国通りや明治通り・山手通りの建設を行っていなければ、東京で頻繁に起こる大渋滞はどうなっていたか想像もつかない。その反面、江戸の情緒を完膚なきまでに打ち壊し、結果として東京を都市機能は備えているが無機質な町に変質させてしまったとの批判もある。
1923年、東京市長時代に、国民外交の旗手として後藤ヨッフェ会談を伊豆の熱海で行い、成立せんとするソビエト連邦との国交正常化の契機を作った。ヨッフェは当時モスクワに滞在していたアメリカ共産党員、片山潜の推薦を受けて派遣されたもので、仲介したのは、黎明会を組織した内藤民治と、田口運蔵等の社会主義者であった。一部からは、後藤は「赤い男爵」といわれたが、後藤はあくまで日本とロシアの国民としての友好を唱え、共産主義というイデオロギーは、単なるロシア主義として恐れるに足らず、むしろ、ソビエト体制の軟化のために日露関係の正常化が望ましいとしていた。
1924年、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て、翌1925年、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った(1926年、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人日本放送協会に発展的解消する)。
1928年、後藤はソ連を訪問しスターリンと会見し国賓待遇を受ける。日本ボーイスカウト連盟会長として、当時の少年達一人が一粒を送った握り飯を泣きながら食べて訪ソしたという。日中露の結合関係の重要性は、後藤が暗殺直前の伊藤博文にも熱く語った信念であり、田中義一内閣が拓務省設置構想の背後で構想した満洲委任統治構想、もしくは、満洲における緩衝国家設立を打診せんとしたものとも指摘される。しかし、詳細は未だに不明である。後の松岡洋右満鉄総裁が、日ソ中立条約締結に訪ソした際、「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と吹聴されていることを知って大声で叫んだという逸話がある。
晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。1929年、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。
[編集] 最後の言葉
三島通陽の「スカウト十話」によれば、後藤が脳溢血で倒れる日に三島に残した言葉は、「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったという。
[編集] 逸話
- 後藤は日本のボーイスカウト活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を勤めている。後藤はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。彼がボーイスカウトの半ズボンの制服姿をした写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。
- 虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わずに貸した。その後、事業は成功し、借金を返そうとしたが、もうすでに後藤は他界していた。そこで、正力はその恩返しとして、新平の故郷である水沢町(当時)に、新平から借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、1941年に日本初の公民館が建設された。
[編集] 著作
- 「海水功用論 附海濱療法」(1882年)
- 「国家衛生原理」(1889年)
- 「日本膨脹論」(1924年)
- 「政治の倫理化」(1926年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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