一向宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
---|
基本教義 |
縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
|
部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
インドの仏教、日本の仏教 |
韓国の仏教 |
経典 |
聖地 |
|
ウィキポータル |
一向宗(いっこうしゅう)とは、
- 鎌倉時代の浄土宗の僧・一向俊聖が創めた仏教宗派。江戸幕府によって時宗に強制的に統合されて「時宗一向派」と改称させられた。
- 他者が浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。
転じて江戸時代、江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名称とさせられたもの。
仏教史的な観念からすれば、本来は1.のみが「一向宗」の正しい定義であるとも考えらるが、実際には戦国時代の一向一揆の印象や江戸幕府による1.の強制統合(「一向宗」の使用禁止)と2.の強制改名(「一向宗」の使用強要)に伴い、今日では2.のみを指すのが一般的である。
目次 |
[編集] 一向俊聖の「一向宗」
鎌倉時代の僧侶・一向 俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派を「一向宗」と呼ぶ場合がある。
一向は筑後国草野家の出身で初めは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。以後、同寺を本山として東北、北関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成していた。鎌倉時代末期に書かれた『天狗草紙』・『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
だが、同時期の一遍房智真と同様に、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、時衆と混同されるようになっていく。確かに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれて一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の起こした浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺8世の蓮如が延暦寺に追われて北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。更に別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていた(後述)も彼の憂慮を深めた。
文明5年に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
ところが、江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底化のために一向の流派を独立した宗派とは認めず同じ踊り念仏という事で、清浄光寺を総本山とする一遍を祖とする時宗の管轄下に置かれて「一向宗」の呼称を用いる事を禁じられた。『時宗要略譜』によると時宗十二派のうち、一向派、天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。当然のように一向派(かつての一向の一向宗)は再三に亘る独立運動を起こすも実らなかった。大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは昭和時代に入った1943年の事であった。
[編集] 浄土真宗の「一向宗」
「一向」とは、ひたすらとか一筋ということで、一つに専念することを意味している。これは『無量寿経 』にある「一向専念無量寿仏」から、阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、そこから「一向宗」が他の宗派より親鸞を開祖とする浄土真宗を指す呼称となった。一説には「浄土真宗」とという呼称を嫌った浄土宗による呼称とする説もある。
従って、本来であれば浄土真宗の信徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも一緒くたに考えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、浄土真宗の門徒ですら一向宗を自称する者がいた事を意味する。こうした指導により「浄土真宗」又は「真宗」と呼ばれるようになり、浄土真宗内部では正式には使われなくなった。ところが、後に浄土真宗の門徒たちを中心とする一揆を一向一揆と呼ぶことなどで、浄土真宗を一向宗と呼ぶ他宗派の風潮は収まる事はなかった。
[編集] 宗名論争
やがて、全国を平定した江戸幕府即ち徳川将軍家は浄土宗を信仰しており、また三河一向一揆で苦しめられた経緯から一向宗を公式名称として用い続けた。一方、浄土真宗側は本願寺の分裂などの影響があり具体的な対応が取られることがなかった。
ところが、安永3年(1774年)、この事に危機感を感じた東本願寺と西本願寺が一致して幕府に対して「浄土真宗」のみを公式名称とするように求める意見書を提出し、仏光寺派・高田派など非本願寺系真宗各派もこれに呼応した。寺社奉行松平忠順は困惑して、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)に意見書に対する見解を求めた。寛永寺は他宗の問題である事を理由に宗派に任せる(事実上の容認)姿勢を見せたのに対して、増上寺は激怒した。増上寺は法然の直系である浄土宗こそが「真の浄土宗」であり、異端である一向宗が「真」の字を用いる事をむしろ禁じるべきであると回答した。
翌年松平忠順が寺社奉行を辞任して太田資愛が後任となると、老中田沼意次と協議して増上寺をはじめとする浄土宗寺院の幕府への貢献が格別であるとして正式に「一向宗」を正式な宗派名とする事を決定した。これに対して浄土真宗各派は激しく抗議した為、その後審議のやり直しを決定したものの、実際には単なる先送りに他ならなかった。その間に増上寺は浄土宗各派に対して「浄土真宗」の名称を用いる事が出来るのは浄土宗寺院だけであるという見解を出して増上寺に「浄土真宗」の額を掲げるなどの圧迫を加えた。追い詰められた真宗側は、天明8年(1788年)には上洛の帰途箱根山を通過した老中松平定信に対して浅草本願寺の僧が直訴する騒ぎとなった。これに苦慮した定信は寛永寺の輪王寺宮に相談して仲裁を願い出た。輪王寺宮は翌寛政元年(1789年)に「3万日」間寛永寺でこの問題を預かりその後に改めて議論するという仲裁案が出されて浄土真宗側もこれに従わざるを得なかった。これを「宗名論争(しゅうめいろんそう)」という。以後、浄土真宗はあくまでも「一向宗」の呼称を拒否して門徒宗(もんとしゅう)などの言い換えを行った。
明治政府が成立すると、神道国教化の過程で仏教統制の必要性を感じた新政府は浄土真宗に対して「浄土真宗」・「門徒宗」など「一向宗」以外の呼称を改めて禁じようとした。ところが廃仏毀釈の問題も相俟って浄土真宗側の猛反発を買った。浄土真宗側ではこの裁定を下した江戸幕府が滅亡した事、そして何よりも既に約束の「3万日」が到来している事を理由に改めて「浄土真宗」の呼称を認めるように迫った。これに対して新政府は明治5年(1872年)になって浄土宗の手前「浄土真宗」は認めないが、略称の「真宗」であれば認めるとする見解を出した。これに従った浄土真宗の寺院は以後「真宗」を公式名称とする。そして、戦後になって西本願寺を長とする真宗本願寺派は「浄土真宗本願寺派」と正式に名乗るようになった。これに対してそれ以外の9の浄土真宗系宗派はいずれも「真宗○○派」といった呼称を用いている。
[編集] 参考文献
- 辻川達雄 『蓮如と七人の息子』(1996年誠文堂新光社ISBN 4-416-89620-4)