大久保忠俊
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大久保 忠俊(おおくぼ ただとし、明応8年(1499年) - 天正9年(1581年))は戦国時代の武将。三河の松平氏(徳川氏)の家臣。宇津忠茂の子で、大久保忠員の兄。蟹江七本槍の一人。名は新八郎、五郎右衛門とも。大久保忠勝、大久保忠益、女子(蜂屋貞次妻)の父。
当初の姓は「宇津」で、「大窪」を経て「大久保」を名乗った。
徳川家康の祖父・松平清康の頃から3代に渡って仕えた宿老で、徳川氏をよく支えた。家康の父・松平広忠が大叔父の松平信定によって岡崎城を追われた際には秘かに挙兵の準備をして信定を追放し、広忠を岡崎城に入城させた、家康の独立などで活躍した。
蟹江城攻め・桶狭間の戦いなどに参戦。その後剃髪して常源と号し、1563年の三河一向一揆では岡崎城の防備に務める。その時、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。