大久保氏
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大久保氏(おおくぼし)は日本の氏族。
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[編集] 三河大久保氏
関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時景の子の武茂泰藤が三河国に移住したのがはじまりで、その子孫が松平氏に仕えたとされるが真相は不明である。当初は宇都宮氏にあやかり宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂又は大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。
徳川家康の時代には忠茂の孫で大久保忠員の子の大久保忠世・忠佐兄弟が武功をあげ、大いに活躍した。
忠世の子、大久保忠隣は本多正信・正純親子と権力争いを繰り広げた。1613年、本多親子は、忠隣家臣大久保長安の横領行為(大久保長安事件)を家康に示唆。これを入れた家康はすでに死去していた長安の遺体を掘り起こして磔にし、長安の家族を処刑した。長安の主君である忠隣も、改易処分を受けた上で近江国栗太郡中村に配流され、井伊直孝預りの身となった。
1625年、忠隣の孫大久保忠職の代になって罪を許された。忠職の跡を継いだ大久保忠朝の代から明治維新まで、小田原藩は大久保氏の統治が続いた。1869年の版籍奉還後、藩主大久保忠良は小田原藩の藩知事となった。しかし1871年に廃藩置県が実施され、小田原藩は解体、忠良も罷免となった。
幕末・明治期の政治家大久保一翁(忠寛)は三河大久保氏の一族である。
[編集] 三河大久保氏歴代当主(安土桃山時代以降)
[編集] 三河大久保氏系図
太線は実子、細線は養子。
忠茂 ┣━━━┓ 忠俊 忠員 ┣━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━┓ 忠世 忠佐 忠為 忠教 ┃ ┃ 忠隣 忠知 ┣━━━┳━━━┓ ┃ 忠常 教隆 忠総 忠高 ┃ ┃ ┃ 忠職 忠朝 常春 | ┃ 忠朝 忠胤 ┣━━━━━━━┓ ┣━━━┓ 忠増 教寛 忠卿 忠喜 ┣━━━┓ ┣━━━┓ | 忠方 総陽 教端 教平 忠成 ┃ ┃ ┃ ┣━━━┓ 忠興 教起 教翅 忠保 忠美 ┃ ┃ ┃ ┃ 忠由 教倫 教孝 忠順 ┃ ┃ 忠顕 教義 ┃ ┃ 忠真 忠良 ┃ 忠修 ┃ 忠愨 | 忠礼 | 忠良
[編集] その他の大久保氏
薩摩出身の大久保利通の一族がいる。薩摩藩士の大久保氏は藤原姓とされるが定かではない。彼の一族については大久保利通を参照。