大御所
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大御所(おおごしょ)とは、征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍のこと。古くは親王やその住いを指す場合もあった。現在では、業界や一定の分野での第一人者・大功労者・権威者などを指す俗称や、ある職種や権限、立場などを他人に譲り、自らは足場固めに励んでいる者たちの俗称となっている(例「政界の大御所」など)。
[編集] 大御所の由来
大御所の名が正式に用いられるようになったのは、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康が、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲って隠居したときに「大御所様」という敬称が用いられるようになったときである。しかし、御所とは本来天皇の居所(皇居)のことを意味するものであり、それに大を加えて用いることは天皇よりも上の者を意味するということで、当時はその名に対して批判や疑問も多かったと言われている。だが、これに対して家康は、古来の幕府の隠居した将軍の中にも大御所の名を用いたものはいる、と言い繕うことで難を逃れている。
なお、現役将軍の座を隠退して大御所となった後も、政治の実権を手放さずにいた例は多い。そのため、平安時代後期に行なわれた上皇や法皇による院政と、大御所政治は同義であるといっても過言ではない。
[編集] 江戸幕府の大御所
江戸幕府を開府した初代将軍・徳川家康は、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲って駿府城に隠居城を構えた。しかし、大御所となった後も家康はなおも政治を主導していたため、大御所政治と呼ばれた。秀忠が政治を実際に取り仕切るようになったのは1616年の家康の死後からである。
二代将軍・秀忠も1623年に将軍職を子の徳川家光に譲って隠居している。そして1632年に病死するまで、政治の実権を握り続けた。
八代将軍・徳川吉宗は1745年に将軍職を子の徳川家重に譲って隠居しているが、家重は言語不能な一面を持っていたため、1751年に死去するまで、吉宗は実権を握り続けた。
九代将軍・徳川家重は、1760年に将軍職を子の徳川家治に譲って隠居しているが、彼は言語不能なうえ、翌年に病死したため、大御所として政治的実権を振るっていたわけではない。
十一代将軍・徳川家斉は1837年に将軍職を子の徳川家慶に譲った後も、1841年に死去するまで大御所として政治の実権を握り続けていた。なお、家斉の治世は50年以上にも及んだため、「大御所時代」と呼ばれることが多い。