駿府城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
![]() |
|
駿府城の航空写真 (1988年撮影・国土航空写真) |
|
通称 |
府中城、静岡城 |
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
五重七階(非現存) |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 |
徳川家康 |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀、復元櫓・門 |
位置 |
駿府城(すんぷじょう)は、駿河国安倍郡府中(現在の静岡県静岡市葵区)にある城である。別名は府中城や静岡城など。江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には静岡藩が置かれた。
目次 |
[編集] 城の概略
中世に今川氏によってこの地に今川館が築かれたが、武田信玄や徳川家康の侵攻で失われた。その後、駿河国を支配した家康によって築城され、この時に初めて天守が建つ。その後、家康の関東移封により豊臣恩顧の中村一氏が城主となる。
江戸時代初期には、大御所となって駿府に隠居した家康によって大修築が行われ、三重の堀を持ち、天守が慶長12年(1607年)に完成しているが直後に焼失し、直ちに再建工事が行われ、新たな天守は大型の天守台の中央に六重七階の天守が建ち、その外周を隅櫓や多聞櫓が囲む特異な構造となる。この大御所政治時代、駿府は、政治・経済の中心地として大いに繁栄した。
現在では、官庁や学校などの公共用地が立地し、天守は現存していないが、二の丸巽櫓、東御門(櫓門)と続多聞櫓、更には明治時代に歩兵第三十四連隊を置くために埋められた本丸堀が復元されている。
[編集] 城の概要
[編集] 城の歴史
[編集] 今川館時代(中世)
- 応永6年(1399年)に今川泰範により今川館が築城される。
- 今川義元の代に、竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府で暮らす。
- この時期の駿府は「東国の京都」と呼ばれ、大内氏の山口と同様に繁栄した。
- 今川氏真の代に、武田信玄の駿河侵攻によって今川館が失われる。その後、武田氏の駿河経営を担当した穴山信君は、駿府よりやや東寄りの江尻城(旧清水市、現清水区)を本拠とした。
[編集] 安土桃山時代
[編集] 大御所政治時代
- 慶長6年(1601年):家康の異母弟・内藤信成が駿府城主に任ぜられる。
- 慶長11年(1606年):内藤信成が長浜城主に移封される。
- 慶長12年(1607年):12月に出火し、御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
- 慶長13年(1608年):本丸御殿等完成。
- 慶長14年(1609年):家康の第十子・徳川頼宣が駿府城主となる。
- 慶長15年(1610年):天守完成。
- 元和2年(1616年):家康死去(75歳)。
[編集] 江戸時代
- 元和5年(1619年):頼宣が和歌山城主に移封。
- 寛永元年(1624年):徳川秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となる。
- 寛永8年(1631年):忠長が乱心、兄である徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
- 寛永9年(1632年):忠長が高崎城で自刃。以後、駿府城代が置かれ、駿府は徳川幕府直轄の天領となる。
- 寛永12年(1635年):城下の火災が城に延焼。大半を焼失。
- 寛永15年(1638年):御殿・櫓・城門等が再建されるが、城主がいないため天守は再建されず。
[編集] 明治維新以後
- 慶応4年(1868年):大政奉還に伴い、徳川慶喜の養嗣子徳川家達が駿府城に移り静岡藩主となる。
- 明治2年(1869年):江戸が東京に、駿府が静岡に改名される。廃藩置県により、静岡藩知事徳川家達が東京に移る。
- 明治22年(1889年):静岡市に公園として払い下げられ、城の任務を終える。
- 明治29年(1896年):陸軍歩兵第三十四連隊の誘致に伴い、本丸堀は埋められ、城郭施設は全て取り壊される。
- 昭和24年(1949年):大蔵省より静岡市に再度払い下げ、公園として整備。
- 平成元年(1989年):巽櫓復元、資料館として公開。
- 平成8年(1996年):東御門復元、資料館として公開。
- 平成19年(2007年):未申(ひつじさる)櫓復元工事中(石垣の発掘補強中)。
[編集] 関連項目
[編集] 位置情報
カテゴリ: 日本の城 | 静岡県の歴史 | 静岡県の建築物・観光名所 | 静岡市 | 建築関連のスタブ項目 | 日本の歴史関連のスタブ項目