天野興定
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天野 興定(あまの おきさだ、文明7年(1475年) - 天文10年(1541年))は、日本の戦国時代の武将で、安芸国の国人領主天野氏当主。父は天野興次。子は天野隆綱・天野元定。
天野氏は安芸に土着する国人領主で、毛利氏・宍戸氏などとは元々同格の立場である。代々周防国の大名大内氏の影響下にあったが、尼子経久の勢力が安芸に浸透してくるようになると、大内方から離反し尼子方へついたが、勢力を盛り返した大内義興の攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い込まれる。しかし、毛利元就の取り成しもあって1525年降伏が許され、以後は親大内・親毛利の立場を生涯貫いた。
1540年、吉田郡山城の戦いで毛利氏のために奮戦し、大軍を率いて安芸に乗り込んだ尼子晴久の撃退に成功し、翌1541年には、尼子方の佐東銀山城の武田信実を毛利氏とともに攻略したが、その年に興定は病没した。
家督は子の隆綱が継いだ。