奥平貞能
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奥平 貞能(おくだいら さだよし、天文6年(1537年) - 慶長3年12月11日(1598年))は戦国時代の武将である。奥平貞勝の嫡子で、母は水野忠政の妹。奥平信昌の父。美作守。
[編集] 概要
奥三河の作手亀山城を本拠に持つ有力国人。永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗死した後、今川氏から離反。徳川家康の家臣となった。家康の遠江侵攻に従う他、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも、信長の援軍に駆けつけてきた家康軍として参戦する。翌年元亀2年(1571年)から、武田信玄の三河侵攻が活発化。信長と家康の関係を遮断、三河撹乱を目論む武田軍の先遣・秋山信友に降伏。以後は、武田軍として三河、遠江の各地を転戦する。元亀4年(1573年)、野田城を降しながら撤退する武田軍を不審に思っていたが、やがて、秘匿されていた信玄の死に確信を深める。同年の夏、三河長篠城の救援に間に合わなかった武田軍の中で次第に立場を悪くした為、同年改元後の天正元年(1573年)8月21日、信玄の後を継いだ武田勝頼から離反し、家康に再属。長篠の戦いの原因を作った。貞能は天正元年(1573年)、子の信昌に家督を譲って隠居したが、実権は握り続けたという。
天正18年(1590年)3月、小田原遠征の途中で三河国額田郡長沢に逗留した秀吉から招かれ、長篠の戦話などを所望された。その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められた。秀吉の相伴衆(2000石)になったきっかけである。こんな隠居者の上京に対し、秀吉はわざわざ美作守叙任の労をとるほどだった。秀吉薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領した。
慶長3年12月11日(1598年)、伏見において病で没した。62歳。戒名は昌院殿牧庵道渓大居士。家康配下・本多広孝の2男・重純に嫁した娘がいる。