婉容
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婉容皇后(えんようこうごう、1906年11月13日 - 1946年)は、中国清の皇后であり満州国皇后。 実家の姓から郭布爾皇后とも呼ばれる。
[編集] プロフィール
満洲旗人の郭布爾(郭布羅、郭博勒とも書く)栄源の娘として1906年に北京で生まれる。3世紀の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられ、さらに同じ『洛神賦』に因み「慕鴻」の字を名乗る。17歳の時、清朝の廃帝宣統帝(愛新覚羅溥儀)に皇后として迎えられた。英語名はエリザベス(Elizabeth)。しかし、夫婦仲は次第に冷めていく。原因は一説では溥儀のインポテンツかホモセクシャルとも言われる。鬱屈した気分を晴らそうとした婉容はアヘンに手を出し、重度の中毒に陥った。
溥儀が満州国皇帝となると婉容も再び皇后となったが、アヘン中毒と日本人嫌いのため、公式の場にはほとんど姿を見せなかった。満州国時代末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたまま、不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったという。ついには精神錯乱を来していたというが、溥儀は婉容に手をさしのべることもなく、むしろ離婚を考えたと言われる。
日本の敗戦後、溥儀が日本亡命のため逃亡した後、嵯峨浩らわずかな親族や従者と共に取り残された形となった。各地を転々とした後、結局中国吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、孤独の内に死去したといわれるが、詳細な死去時期や場所は今なお不明である。
婉容死去の知らせを溥儀は3年後に拘留先のソ連で受けた。その後、溥儀は自伝「我的前半生(日本語題は『わが半生』)」の中で、「私が彼女について知っているのは、吸毒(アヘン)の習慣に染まったこと、許し得ない行為があったことぐらいである」と書いている。
2004年、孝恪愍皇后の称号が贈られた。
[編集] セクシャルスキャンダル
婉容には満州国皇后時代に2人の愛人がおり、娘を出産した、と言われ、溥儀の自伝にある彼女の「許し得ない行為」とは、このことと思われる。しかし、産まれた娘はすぐに彼女の前から消えた。婉容本人には「親族の手で育てられる」と伝えられたが、実際には、溥儀の命を受けた従者によりボイラーに放り込まれた。