孟嘗君
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孟嘗君(もうしょうくん ? - 紀元前279年)は中国戦国時代の政治家。戦国四君の一人。姓は嬀(ぎ、女偏に為)、氏は田、諱は文。諡が孟嘗君である。斉の威王の孫に当たる。
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[編集] 略歴
[編集] 田文の登場
田文の父・田嬰は宣王の異母弟で薛(現在の山東省滕州)に領地を持っていた。田文が生まれたのは5月5日であり、この日に生まれた子は後に親を殺すと言う迷信があり、田嬰は田文を殺そうとしたが、母は密かに田文を匿い育てた。(この話には史実かどうか多少の疑念がある)その後、許されて田嬰の屋敷に住むようになった。最初は冷遇されていたが、次第に田文の聡明さが判る様になり、田嬰は屋敷に滞在する食客の世話をさせることにした。そうすると客の間での田文の評判が非常に高くなり、更に諸侯の間でも田文の評判が高くなったので、田嬰は田文を跡継ぎに建てる事にした。
跡を継いだ田文は積極的に食客を迎え入れ、その数は数千を超えた。ある時に田文が食事の時に衝立で食事を隠していた事から客の一人が自分と客との料理に差をつけているから隠すのだろうと言い立てた。これを聞いた田文はその客に料理がまったく同じだと言う事を示し、疑った事を恥じた客は自ら首をはねた。
[編集] 鶏鳴狗盗
この事が更に田文の名声は高め、紀元前299年に秦の昭襄王は田文を宰相として迎え入れようとした。これに応えて秦に入ったが、秦に入った後に、昭襄王に対してある人が「田文が当代一流の人材であることは認めますが、田文は斉の人でありますから、秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いありません。さりとて帰せば斉の利の為に働き、ひいては秦の脅威となるでしょう」と進言し、昭襄王はこれを入れて田文は殺されそうになった。
田文は食客を使って昭襄王の寵姫に命乞いをし、寵姫は狐白裘をくれれば、昭襄王に助命を頼んでも良いと答えた。狐白裘とは狐の腋の白い毛だけを集めて作った衣の事で非常に高価なものであり、田文は秦に入国する際に昭襄王にこれを献上していた。他に狐白裘は持っていないのでどうするかと悩んでいた所、食客の一人で狗盗(犬のようにすばしこい泥棒)が名乗り出て、昭襄王の蔵から狐白裘を盗んできた。これを寵姫に渡し、寵姫の取り成しにより田文は開放された。
ぐずぐずしていると昭襄王の気が変わってしまうかもしれないので、早速出発し道を急ぎ、夜中に秦の国境の函谷関までやってきた。しかし関は閉じられており、鶏の声がするまでは開けないのが規則であった。田文達の背後では、既に気の変わった昭襄王が出した追っ手が出されており、田文達もそれは察していたためどうするかと悩んでいた所、食客の一人に物真似の名人が名乗り出た。そして鶏の鳴きまねをすると、それにつられて本物の鶏も鳴き始め、函谷関が開いて田文は無事に秦から脱出する事が出来た。
学者などの食客は、田文が盗みや物真似の芸を持つものすら食客として受け入れていたことが不満であったが、「成程、人には使いようがある」と田文の先見の明に感心した。 追っ手は夜明け頃に函谷関へ着いたが、田文たちがかなり前に関を通った事を知り、既に他国に入っていて追えないので引き帰した。 ちなみに鶏鳴狗盗の故事はここから来ている。(百人一首の清少納言の句でも有名)
秦から斉に帰る途中、趙の村に立ち寄ったときに村人にチビだと馬鹿にされ、これに怒った田文は食客と共に村人を皆殺しにした。
[編集] 斉の宰相
斉に帰ってきた田文は宰相になり、韓・魏の軍と合わせて秦を討った。
その後は湣王(湣は民の下に日を置いてその左にさんずい)の元で宰相として内外の政治に当たったが、その内に湣王は田文の事を疎ましく思うようになり、田文は隠棲する事になった。しかしその後も湣王の猜疑は止まず、紀元前284年に魏に逃げて、宰相となった。その後、燕の楽毅の主導で趙・魏・韓・秦・燕の五ヶ国連合軍が成立し、湣王の軍に大勝した。
湣王は殺され、楽毅により斉は滅亡寸前まで行ったが、田単により復興し、田文も斉に迎えられた。紀元前279年に死去し、諡して孟嘗君と呼ばれるようになった。死後、息子たちが跡目争いをしている隙を突いて魏と斉が薛を攻め、孟嘗君の子孫は絶えた。