宇井陽一
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宇井陽一(うい よういち、1972年11月27日 - )は、千葉県出身のモーターサイクル・ロードレーサー。1995年全日本ロードレース選手権GP125チャンピオン。
マシン開発力に定評があり、1999年よりスペインのモーターサイクルメーカーデルビのエースライダーを務める。2000年・2001年ロードレース世界選手権(WGP)GP125ランキング2位を獲得。同選手権で22戦連続フロントロー獲得。
ゼッケンナンバーは名前にちなんだ41。
[編集] 略歴
ポケバイやミニバイクを経験する。
1995年全日本ロードレース選手権GP125チャンピオンを獲得。翌1996年にヤマハ・クルツよりロードレース世界選手権GP125フル参戦開始。
スペインのモーターサイクルメーカーのデルビはWGP復帰に伴い、当時チームクルツに在籍したハラルド・バートルにマシン開発を依頼する。宇井のライダーとしての能力とマシン開発能力を高く評価していたバートルは、宇井と共に移籍という条件でのみ移籍すると答えたという。その結果、1999年に宇井はエースとして、バートルは開発責任者としてデルビに移籍することとなった。全くの白紙の状態からのマシン作りながら、初年度から宇井は表彰台1回を獲得し、2年目の2000年第3戦日本GP(鈴鹿)でデルビの復帰後の初優勝を含む5勝でランキング2位を獲得。
2001年は実質的に同マシン、同チームのマニュエル・ポジアーリ(ポジアーリのマシンメーカー名はデルビと同グループのブランドのジレラである)とのチャンピオン争いとなり、宇井は6勝したがノーポイントレースも多く、3勝のポジアーリに次ぐランキング2位となる。2002年もデルビより参戦。
2003年はステルガルダ・レーシングチーム(アプリリア)に移籍。しかしシーズン中盤に解雇されてしまう。その直後のレースより実質的な古巣であるジレラより参戦する。
2004年にアブルッツォ・レーシング(アプリリア)に移籍するが、ここでもシーズン中盤に解雇されてしまう。2年連続の解雇劇は、日本のモータースポーツ人気の低さからくるスポンサー獲得の難しさと、ヨーロッパのモータースポーツ人気からくるスポンサーのヨーロッパ人志向が影響してると考えられている。
シートを失った宇井にWCMよりオファーがあり、日本GP(もてぎ)にMotoGPクラスへの参戦が実現する。上位陣のリタイヤが多かったこともあり、15位入賞する。その後、残り3戦も参戦することとなった(うち1戦は予選落ち)。
2005年は全日本選手権に戻り、バーニングブラッドより4ストローク600cc公道用市販車を改造したマシンによるクラスのST600に参戦。しかし、2ストロークのレース専用マシンに乗り続けてきた宇井は乗り換えに手こずり、このシーズンはノーポイントという大不振に終わった。
2006年はプロテックに移籍し全日本選手権GP250に参戦。
[編集] 戦績
- 1992年 - ロードレース関東選手権S80 ランキング2位
- 1993年 - ロードレース関東選手権125 チャンピオン
- 1994年 - 全日本ロードレース選手権GP125 ランキング4位
- 1995年 - 全日本ロードレース選手権GP125 チャンピオン(ヤマハ)
- 1996年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング18位(ヤマハ・クルツ)
- 1997年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング12位(ヤマハ・クルツ)
- 1998年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング11位(ヤマハ・クルツ)
- 1999年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング11位(デルビ)
- 2000年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング2位(デルビ)
- 2001年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング2位(デルビ)
- 2002年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング13位(デルビ)
- 2003年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング13位(アプリリア、ジレラ)
- 2004年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング22位(アプリリア)
- ロードレース世界選手権MotoGP ランキング28位(ハリス・WCM)
- 2005年 - 全日本ロードレース選手権ST600 ノーポイント(バーニングブラッド)
- 2006年 - 全日本ロードレース選手権GP250 (PRO-TEC×weave)