守貞親王
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守貞親王(もりさだしんのう、治承3年2月28日(1179年4月6日)-貞応2年5月14日(1223年6月14日))は高倉天皇の第二皇子で母は坊門信隆の娘・坊門殖子(七条院)。安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟にあたる。出家して行助入道親王と名乗ったが、子である後堀河天皇の即位後、異例の太上天皇号を贈られ院政を行うことになった。これを後高倉院という。
幼い頃、平知盛に育てられていた関係で、平家が都落ちをした際に皇太子に擬されて、西国に連行される。平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に後鳥羽天皇が即位していた(ちなみに『増鏡』では、守貞親王と尊成親王(後鳥羽天皇)が後白河法皇の前に呼ばれて、すぐに法皇に懐いた尊成が皇位に立てられたとする記述があるが、実際に尊成とともに呼ばれたのは守貞親王の異母弟惟明親王(高倉天皇第三皇子)といわれており、これについては『増鏡』作者による「演出説」と「勘違い説」に分かれている)。
後に持明院基家の娘陳子(後の北白河院)を妃にして持明院家ゆかりの持明院を御所としていたが、自らの不遇を嘆いて建暦2年(1213年)3月に出家してしまう。以後「行助」と名乗る。
ところが、8年後の承久3年(1221年)、承久の乱が起きて後鳥羽上皇らが流罪になり仲恭天皇が廃位されると、鎌倉幕府は「後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めない」とする方針を決定、急遽非後鳥羽系皇族を捜し求めたところ、「行助」と名乗っていた親王の3男・茂仁王以外に出家していない皇族がいないことが判明した。そこで茂仁王を即位させる事になった(後堀河天皇)ものの、王はまだ10歳と幼少であり「天皇親政」を望みえる歳ではなかった。そこでこの年の8月16日に父親である行助入道親王に「太上天皇」の尊号を送り、急遽院政を行わせる事になったのである。
後高倉院は承久の乱直後の朝廷内の混乱を鎮めて幕府との関係を再構築するなどの実績を残したものの、その翌々年には病死してしまうのである。
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[編集] 略年表
- 治承3年(1179年)2月28日 誕生
- 文治5年(1189年)11月19日 親王宣下、無品
- 建久2年(1191年)12月26日 元服・加冠、三品親王
- 建暦2年(1212年)3月26日 出家、行助入道親王
- 承久3年(1221年)8月 太上天皇
- 貞応2年(1223年)5月14日 崩御
[編集] 息子女
- 第一皇子:尊性法親王(二品天台座主)(1194-1239)
- 第一皇女:利子内親王(式乾門院)(1197-1251)
- 第二皇女:能子内親王(押小路宮)(1200-1245)
- 第三皇女:本子内親王(?-1229)
- 第二皇子:道深法親王(二品権大僧都)(1206-1249)
- 第四皇女:邦子内親王(安嘉門院)(1209-1283)
- 第三皇子:茂仁王(後堀河天皇)(1212-1234)
- 第五皇女:有子内親王
[編集] 異名
持明院宮、持明院法皇、広瀬院。
[編集] フィクションでの扱い
宮尾登美子原作の2005年NHK大河ドラマ「義経」では、親王は壇ノ浦の戦いのときに兄・安徳天皇の身代わりとして水没し、安徳天皇がその後「守貞親王」として生き延びるという筋書きになっている。
カテゴリ: 平安・鎌倉時代の皇族 | 1179年生 | 1223年没