平知盛
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平知盛(たいら の とももり、仁平2年(1152年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日))は、平安時代末期の武将。父は平清盛(知盛は四男)。母は平時信の娘・平時子。兄には平重盛、平宗盛、弟に平重衡がいる。官位は従二位行権中納言。世に新中納言と称された。
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[編集] 生涯
同腹兄に平宗盛、同腹弟に平重衡、同腹妹に平徳子(建礼門院)がいる。父・清盛の引き立てもあってわずか8歳で従五位下となり、その後も栄進してゆく。武将としては有能であり、『平家物語』をはじめとする史料では父・清盛から厚い信任を受けており、重盛の次に寵愛された息子だったと言われている。1180年、以仁王と源頼政が反乱を起こしたときには、父の命令を受けて総大将となり、平等院に立て籠もった両名を討ち果たした。その後、美濃と近江で源氏が叛乱を起こした時にも総大将として鎮圧にあたり、これを見事に平定した。知盛はその後、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされた。
1181年、父・清盛が死去する。清盛の後は兄の宗盛が継いだ。しかし清盛は暗愚の宗盛より知盛の後継を一時は考えていたらしい。しかし知盛は、先に触れたように戦陣で病臥するなど蒲柳の質(晋書顧愷之伝によれば弱い体質のこと。「蒲柳」とはカワヤナギの異称で、秋になると他の樹木に先駆けて葉が落ちてしまうことから言う) であったため、清盛は遂に後継者に選ばなかったと言われている。とはいえ、清盛の死後は暗愚凡庸の兄・宗盛に代わって平氏一門の中心的な人物としてその発言力も大きかったため、事実上は彼が平氏の棟梁のようなものであった。
1183年、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅すると、知盛は宗盛とともに都落ちを決める。そして大宰府にて軍を再建し、源義仲が派遣した足利義清(矢田義清)らの軍勢も備中水島の戦いにて撃破し、義清以下数千を討ち取った。一時は勢力を福原にまで回復することができたのは、この知盛の軍事能力によるところが大きかった。
しかし1184年の一ノ谷の戦いで、子の平知章をはじめとする多くの有力武将を失った平氏軍の衰退は、もはや知盛一個人の能力で再建できるものではなかった。その後も源義経の前に屋島の戦いで敗れた。このとき、知盛は源範頼の動きを警戒して長門国にいたことも、屋島における平氏敗戦の一因となった。
そして1185年、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた平知盛は、海へ身を投げ自害した。このとき、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したと言われている。ともに入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。これに想を得た歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛」(いかりとももり)とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。
なお、平家滅亡後に叛乱を起こす平知忠は、平知盛の息子である。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1159年(保元元)1月7日、蔵人に補任。 1月21日、従五位下に叙位。
- 1160年(永暦元)2月28日、武蔵守に遷任。
- 1162年(応保2)9月28日、左兵衛権佐兼任。
- 1164年(長寛2)1月5日、従五位上に昇叙。武蔵守・左兵衛権佐如元。
- 1166年(仁安元)8月27日、正五位下に昇叙。武蔵守・左兵衛権佐如元。 10月10日、春宮大進兼任。 10月21日、中務権大輔兼任。左兵衛権佐の兼任を止む。 月日不詳、右近衛権少将に転任。
- 1167年(仁安2)2月11日、武蔵守兼任。 12月30日、武蔵守兼任を止む。
- 1168年(仁安3)1月6日、従四位上に昇叙。右近衛権少将如元。 2月19日、昇殿。 3月23日、左近衛権中将に転任。 8月4日、正四位下に昇叙。左近衛権中将如元。
- 1175年(安元3)1月24日、従三位に昇叙。左近衛権中将如元。
- 1178年(治承2)1月28日、丹波権守を兼任。
- 1179年(治承3)1月19日、春宮権大夫に遷任。右兵衛督兼任。丹波権守如元。 8月、春宮権大夫辞任。 9月5日、正三位に昇叙。春宮権大夫復任。丹波権守兼任。右兵衛督止む。 10月9日、左兵衛督兼任。丹波権守如元。
- 1180年(治承4)2月21日、春宮権大夫辞任。 2月25日、新院別当・御厩別当兼帯。
- 1181年(治承5)2月、左兵衛督辞任。 3月26日、参議に補任。左兵衛督・丹波権守如元。 9月23日、参議辞職。左兵衛督・丹波権守如元。
- 1182年(養和2)3月8日、左兵衛督辞任。 10月3日権中納言に転任。 11月23日、従二位に昇叙。権中納言如元。
- 1183年(寿永2)8月6日、解官
[編集] 系譜
- 兄弟
- 姉妹
- 息子
- 娘
- 平範茂室