宗義真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
||||
時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛永16年11月18日(1639年12月12日) | |||
死没 | 元禄15年8月7日(1702年8月29日) | |||
別名 | 彦満(幼名) | |||
戒名 | 天竜院 | |||
墓所 | 長崎県対馬市国分の万松院 | |||
官位 | 従四位下、播磨守、侍従、対馬守、 刑部大輔 |
|||
藩 | 対馬府中藩主 | |||
氏族 | 宗氏 | |||
父母 | 父:宗義成 母:日野資勝の娘・福(養玉院) |
|||
兄弟 | 宗義真、細川真春 | |||
妻 | 正室:京極高和の娘・栗(円照院) | |||
子 | 宗義倫、古川真言、宗義方、多田倫寛 宗義誠、宗方熈、高瀬行方 娘(日野資茂室のち徳大寺公全室) 娘(松平忠敏室のち毛利高慶室) 娘(亀井茲親室)、娘(醍醐冬熙室) |
寛永16年(1639年)11月18日、第2代藩主・宗義成の長男として生まれる。明暦元年(1655年)6月、従四位下、播磨守に叙位・任官される。明暦3年(1657年)に父が死去したため、家督を相続して第3代藩主となった。このとき、侍従・対馬守に任官する。
藩政においては大浦光友を登用して借財整理、朝鮮貿易の拡大、寛文検地による地方知行制から蔵前知行制への移行と寛文4年(1664年)の均田制の実施とそれによる税制改革、新田開発、銀山の産銀増加、城下町や府中港の整理と拡大、藩校の創設などを行なって藩政の基礎を完全に固めると共に、対馬府中藩の格式は10万石格にまで登りつめたのである(対馬府中藩の石高は1万石程度だが、貿易収支が大きかったことを考慮された)。こうして対馬府中藩の全盛期を築き上げたのである。
しかし急速な改革、特に知行制度改革は家臣団の不満を買うことになり、寛文5年(1665年)2月に大浦光友は死刑となる。元禄5年(1692年)6月27日、次男の宗義倫に家督を譲って隠居したが、なおも藩政の実権は握り続けた。しかし晩年は義倫の早世、竹島問題における朝鮮との交渉難、さらに朝鮮貿易の収支減退などの悪条件も重なり、対馬府中藩の衰退が始まり、元禄12年(1699年)には財政再建のために家臣の知行借上を行なっている。
義倫の死後は四男の宗義方を擁立し、自らは元禄15年(1702年)8月7日に死去するまで藩政の実権を握り続けた。享年64。
|
|
|