京極高和
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京極 高和(きょうごく たかかず、元和5年3月10日(1619年4月24日) - 寛文2年9月13日(1662年11月3日))は、外様大名である京極氏の江戸時代初期の当主。
[編集] 生涯
1619年(元和5年)3月10日に京極氏当主忠高の弟である高政の子として生まれ、幼名は小法師と称した。
1637年(寛永14年)に松江二十六万石の藩主であった伯父の忠高が嫡子を残さずに亡くなった為、その末期養子となり、播磨龍野六万石へと減封される。
1658年(万治元年)に讃岐丸亀五万石と播磨揖保郡網干一万石へと移封となる。
1660年(万治3年)には讃岐にあり広く信仰されていた金毘羅大権現を江戸三田の藩邸に勧請し、参拝を願う江戸の町民に応え、毎月10日には邸内を開いて参拝させた。また、この年には丸亀城の天守閣を完成させる。
1662年(寛文2年)に京都において44歳で亡くなり、徳源院恃英遺達大居士との法名を贈られる。墓所は滋賀県坂田郡山東町の清滝寺。
藤堂高次の娘市子を正室とし、3人の子をもうけ、長男と次女は早世したが、長女は宗義真に嫁いだ。側室の房子との間に嫡子となる高豊、今出川公規室となる娘をもうける。
[編集] 参考文献
- 西讃府史
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